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INTERVIEW

小野 嘉子 Yoshiko ONO

小名浜の女として守り続ける祖母の味

posted on 2011.2.6


 

小名浜でもっとも有名と言っていい老舗鮮魚店「さすいち」の長女として生まれ、魚屋の女将になることを運命づけられた女性、小野嘉子さん。守り続けるのは、老舗の看板、小名浜の食生活、そして祖母の味。よしこさんの両肩に乗せられたものは、とてつもなく重い。だが、その重みを楽しむように、よしこさんは今日も、店を切り盛りしている。

 

初めて会ったのは、去年の秋、レストラン「さすいち」で開催された何かの打ち上げに呼ばれたときのこと。僕もしこたま日本酒を飲み、いろいろな話をして盛り上がった。そこで過ごす時間は、「海鮮レストラン」にしては妙に楽しく、正直、何を話したか覚えていないくらいだ。

 

ただ、せっせと食器を片付けては次々に新しい料理を運んでくれ、すっと背筋が伸びるような手つきでお酌をしてくれる「美人」がいたことははっきりと覚えていた。話す言葉も動作も気持ちよくスキっとしていて、それでいて出しゃばることがない、なにかこう、昭和の家庭を切り盛りするような、シュっとした女性。それが、アルコール混じりの僕の脳裏に刻まれた、さすいちの若女将、小野嘉子さん(以下よしこさん)との出会いだ。

 

それから、いろいろなイベントなどでよしこさんと会うようになり、こうして今、インタビューをするに至る。目の前のよしこさんは、「外寒かったでしょ。お茶、点てるね」なんてサラリと言ってのけ、手慣れた手つきでお抹茶を点ててくれた。そのお茶の温度と爽やかな渋みは僕の心を落ち着かせるに充分で、古い友人と向き合うような不思議な気持ちでインタビューを始めることができた。

 

 

小名浜の老舗鮮魚店として知られる「さすいち」。もともとは、鹿島街道に面する小名浜岡小名に店を構えていたが、道路の拡張工事にともなって、平成13年に今の場所へと越してきた。開店当初は、祖母の介護などで店を離れていたよしこさん。新しい店の2階に完成したレストランのマネージャーとして戻ってきてからというもの、店を休むことなく、目の回るような忙しい毎日を送っている。

 

「楽しさも、もちろんプレッシャーもあるかな。自分の将来より、お店の1ヶ月後や2ヶ月後のことを考えちゃう。自分をもう少し大切にしたら? って言われるけど、みんなが期待してくれるからこの店に集まってくれる、そういうお店にしなくちゃいけない。寝てる時も夢で見ちゃうからね、仕事のこと」。

 

中学生のときから鮮魚店の手伝いをしてきたよしこさんにとって、「店に立つ」ということは、何より自然で当たり前のこと。「昔から、働くって意識よりも、みんなどんなことしてお魚売ってるんだろうって興味のほうが強かった」という。「ほら、パックに魚を入れてラップするでしょ? どういうふうにやったらきれいにできるんだろうとか、おばさんたちの真似してやらせてもらうのが楽しかった。誰よりもきれいにやってやろうとか、そんなことばっかりだったかな」。

 

よしこさんにとっての「理想の店づくり」の原点は、ほとんどがその時代に培われたものだ。それは、小名浜の厳しい客とのやりとりで鍛えられてきたものでもある。「ちょっとでもダメなものをさばいたら面白くない顔されて、『ねえちゃん自信ねえもん売るなよ』って怒られた。だから今も、マグロとか色が薄いなって思ったら板前さんに外してって言っちゃう。板前さんとはよくケンカをするけど、お客様に嫌われることのほうが恐いもん」。

 

そうなのだ。小名浜の客は、怒る。不味いものを食わせようとすることに怒鳴り、上手い魚と不味い魚の見分けができないことに言葉を荒げる。言葉だって、そりゃ港町だから相当に悪い。でも、魚の善し悪しのわかる客に、よしこさんは確かに鍛えられてきたのだった。そしてそれを、よしこさんは誇りに思っている。

 

店のことを語るよしこさんはにこやかだ。ただ、父のことに質問が及ぶと、その柔らかな笑顔の中に「凛」としたものが強く浮き出てくる。「うちの父は、自分の思ったとおりの動きをしないと怒ってた。『自分が命がけで買って来たものが食卓に乗るまでが仕事だ』って、それが父の考え方。舌が肥えてる小名浜の人のやり方に合わせないと納得しなかった」。さすいちの屋台骨を支える「父」の存在の大きさを、僕は感じた。

 

 

そのお父さん(現社長)が、こだわりの目利きで選んだ鮮魚はもちろんおいしい。さすいちの干物を友人に贈るとみんなに喜ばれるから、僕にとっても自慢の魚屋さんだ。でも、さすいちにはもうひとつ、名物がある。創業以来受け継いできた「お惣菜」。

 

「今は母が毎日作ってるんだけど、それって、もともとはおばあちゃんの味なの。あんこうの切り干し大根とか、かつおの竜田揚げとか。おばあちゃんのつくる料理はおいしいって、それがおばあちゃんの伝説だった」。

 

伝説のおばあちゃんについて、よしこさんは静かに、そして懐かしそうに語り始める。「おばあちゃんっておじいちゃんがはやく他界してるのね。だから、自分ひとりで行商とかにいってたの。そのときの奮闘ぶりとかを聞かされて、なんって強いんだろうって思ってた。父の役目も母の役目もこなして、商売の難しさや大変さを身をもって感じてはずなのに、楽しんでた部分があった」。

 

「わたしはおばあちゃんっ子」と自認するほど、よしこさんは祖母の影響を色濃く受けた。その祖母が、毎日のお惣菜に「小名浜の女」の生き様や、商売人の心意気、そして、それをみんなひっくるめて楽しんでしまう度量の深さも忍ばせて、よしこさんに食べさせてきたのかもしれない。それってよしこさんの話じゃない?って僕が思ってしまうほど、よしこさんが話してくれるおばあちゃんは、よしこさんと重なるのだった。

 

 

だが、伝説のおばあちゃんにも、不条理なものが忍びよっていた。よしこさんが高校3年のときに脳梗塞で倒れ、介護が必要な状態になってしまったのだ。そのときよしこさんは、「おばあちゃんの面倒を見てくれないか」と母から頼まれたという。僕ならきっと「なんで孫の自分が・・・」と感じてしまうだろう。やりたいことはいっぱいあるのに、どうして?って。

 

でも、よしこさんは違った。「魚屋の嫁はこうじゃなくちゃいけないっていうのを聞かされてきたから、血のつながった自分が見るのが当たり前だと思ってた。放り投げてもかわりに誰もやってくれない。だから、やるしかないでしょ?」。強さが際立ったよしこさんの言葉に、思わず僕も背筋が伸びる思いがした。

 

よしこさんの「介護の日々」が始まった。日に日に弱り、自分が孫であることすらも忘れかけてゆく祖母の世話。毎日毎日、店に出ている両親の食事を作り、炊事や洗濯などすべての家事をこなし、祖母と向き合った。空いた時間には、書道や華道、茶道の教室に通い素養を磨いた。このとき学んだ着物の着付けは、師範ができるほどの腕前を持つほどになった。1冊の介護記ができあがるほどの闘いの日々だったことだろう。

 

祖母の最期は、実に商売人らしいものだったという。「12月26日に病院を転院したんだけど、お正月の店の忙しい間はおとなしくしてくれて、1月の4日に急にぱたっと心臓が止まったの。『やっぱり商売人だね』って。みんなに言われた」。小名浜の女の最期は、静かで穏やかなものだった。

 

祖母が「商売人」としての最期を迎えることができたのは、よしこさんの、数年に及ぶ献身的な介護があったからだと僕は思う。家族と店のスタッフの世話をしながら店と病院を往復し、それでもなお自分を磨くことを忘れない。そのケタはずれの一生懸命さは、間違いなく祖母から受け継がれたものだ。

 

だからこそ、祖母にだけは弱い姿を見せられなかったのではないだろうか。弱さや苦しみを超えて一家を支え続けた祖母の姿を追いかけ、小名浜の女を少しずつ引き継ぎ、成長した自分の姿を見せようとしてきたのかもしれない。負けるわけにはいかなかった。それすらも、楽しもうとした。

 

 

祖母の最期を見届け、よしこさんはいよいよレストランのマネージャーとして店を仕切るようになった。今も、手本にするのは祖母の姿。「私自身、父やおばあちゃんのレベルにぜんぜん達してない。歴史っていうか、そのすごさっていうか、超えられない何かがあって。おばあちゃんが男にまじって、魚市場で1人で競ってる姿が思い浮かんで…。超えられないね」。そう言って、よしこさんは笑った。

 

「年齢を重ねて、ちょっとずつ深みが出てきたら、もっと、お客様にも真剣に聞いてもらえるかもしれない。でもそのためにはもっともっと足りないって、そういう焦りがある。おばあちゃんみたいになるにはどうすればいいのかなって、今も追いかけてるのかもしれない」。祖母の存在。それは、ここまで重いものだったのだ。

 

僕はさっき、「小名浜の女を引き継いだ」だなんて簡単に書いてしまったけれど、祖母を引き継ぐということは、家庭や店を守ることだけではなく、小名浜の食の歴史、そして小名浜の魚を食べる人たちみんなの食卓を守ることでもある。よしこさんは、「そういうプレッシャーも楽しんでる」と言う。でも、よしこさんのこの両肩にみんな乗っかっているのだ。

 

 

「自分は将来、老人ホームでみんなのリーダーになるような明るいおばあちゃんになりたい。そうなるのが目標。今は仕事がんばったり、男勝りの部分もあったり、それにお母さんの部分も持ってなくちゃいけないでしょ?  だから、そういう老人ホームとかに入った時に、やっと普通の女に戻れる気がする。そうなったら楽しいんじゃないかって」。

 

この言葉を聞いたとき、僕は戦慄した。「さすいち」という老舗の看板も、家庭も、マネージャーとしての立場も、食文化の伝導師としての立場もぜんぶぜんぶ脱ぎ去らなければ、小野嘉子という1人の女性は解放されることがないのだろうかと。それなのに、目の前のよしこさんは、すべて当たり前のものとして受け止め、かつて祖母がそうしたように、楽しもうとしている。「家業を継ぐ」、ということの重さを感じずにはいられなかった。

 

今後の目標を聞いた。「正直、わたしで大丈夫なの? っていつも恐い。だけど、怖がってもいられないから、まずは、根拠を持って小名浜の食文化を伝えていきたい。なぜ旬のものがいいのか。どうすればおいしく、しかも栄養を豊富に取り入れられるのか。おばあちゃんがやってたことは間違いじゃなかったんだってことを証明した上で、伝えていきたい」。本当に、力強い言葉だ。

 

強靭な「小名浜の女」の遺伝子を受け継いだよしこさんなら、絶対に伝えられる。だけれど、そんな重みを、よしこさんひとりの華奢な身体に押し付けてしまっていいのか。かつて小名浜の人たちが、「自信ねえもの売るな」とよしこさんに言ったように、僕たち自身もよしこさんを盛り立て、時に守り、一緒に小名浜を伝えていくべきなんじゃないか。

 

そしていつの日か、子や孫に「新しい “伝説のおばあちゃん”」の話をするのだ。もちろんそのときは、テーブルの上に、うまい刺身やアンコウの切り干し大根を並べるつもりだ。そんな日が、きっとすぐにやってくるだろう。

 

text & photo by Riken KOMATSU

profile

小野 嘉子 Yoshiko ONO

1971年いわき市小名浜生まれ。高校卒業後、短期大学を経て、市内の専門学校で服飾を学ぶ。祖母の病気を機に書道や華道、茶道、着物の着付けを学んだ。着物の着付けは「師範」の資格を持つなど日本文化に精通している。現在は、そうした経験を生かしつつ、老舗鮮魚店さすいちが運営する海鮮レストランの責任者として、小名浜の食文化を伝えている。

鮮魚・浜土産 さすいち

 

 

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コメント: 4
  • #1

    小野 よしこ (土曜日, 23 7月 2011 16:04)

    自分の記事にコメントしているようで 少々恥ずかしいのですが、
    まさか このインタビューの1カ月後に 震災に遭うことになるなんて 
    想像もしませんでした。
    ですが 小松君のおかげで 電気の付いている店内、
    私の仕事、生き方 そして 両親や祖母のこと… 皆さんに見て頂くことができて、本当に感謝しています。

    今まで 今後のさすいちのことを 皆さんにお話することを避けて
    きました。
    両親共に 命がけで守ってきたお店を簡単には話すことができなくて…
    ですが、初めて少しだけここでお話をさせていただきます。

    311の震災により 大きな損害を受け、さらに 放射能という目に見えない
    存在に 生活・仕事、そして私たちの大切にしてきた海・魚達が汚染され
    すぐには復活することは とても難しい状況になりました。
    いわき小名浜の復興に本来であれば がんばらないといけない状況だと
    思いますが、日に日に見えてくる現状に今は動けずにおります。

    家族の思い、さすいちを大切にしてくださった皆様の思いを考えると、
    毎日 胸が締め付けられる思いです。

    今後どんな形になるのか まだ何も決まってはおりませんが
    いずれ皆様へ きちんとご報告できる日がくるかと思いますので
    もうしばらく 見守っていただけたら ありがたいです。
    今まで 本当にありがとうございました。

    いつかまた さすいちの名前で 皆様にご恩返しができる日まで…


  • #2

    ひろ (土曜日, 28 1月 2012 13:11)

    8年ほど前二働いていたさすいち、元気に生きていつテほしい、なんとかなるさ

  • #3

    ゆか (月曜日, 16 4月 2012 22:58)

    震災直後に安否確認のメールで元気でいた事にほっとし・・・
    震災から1年、自分も震災後のバタバタと遠い事を言い訳になかなか逢いに行けず、
    先日、久々にそちらに足を運び、驚きました!!
    元気ですか?頑張りすぎないで!!
    頑張りやの嘉子ちゃんだから、余計に心配です。
    連絡下さいm(__)m

  • #4

    大将の父 (木曜日, 30 4月 2015 10:32)

    小名浜に生まれ、小名浜に生活してきた1高齢者です。小名浜は気候的に素晴らしく住みよいところです。山あり、谷あり、海ありです。この小名浜をこれからも発展させたいと思います。さすいちも震災で大きな被害がありましたがよく頑張っています。これからも時々妻といきますよ。健康寿命延伸の実現に向け取り組んでいきます。活動を期待しています。