INTERVIEW
比佐 好江 Yoshie HISA
肩の荷を下ろして見えるもの
いわき市内で配布されている「Hi-Magazine」というフリーペーパーがある。下で紹介している最新号の表紙の写真は、彼女が撮影したものだ。彼女が撮るのは、「人」。自分を犠牲にして「一瞬」の表情を切り取る彼女のスタイルは、
どこでどう生まれ、どこに向かおうとしているのか。
僕がインタビューの場所に選んだのは、三崎公園のcafe。ちょうどその日は、夜の営業時間が延びる日だった。その店でビールが飲みたかった僕は、比佐に無理を言って自転車で来てもらったのだった。三崎公園へと続く真っ暗な坂道を、自転車を押しながら上った。
それはまるで、高校生や中学生の時代に戻るかのような不思議な時間だった。自転車を押して坂道を上るなんて久しくしていなかったから。その日は半袖では寒いくらいだったけれど、坂道を上りきった頃には二人して汗をかいていた。
店に入った二人は窓際の席を陣取り、僕はビールを、比佐は大好きなコカコーラをオーダーした。そして、おしゃべりなのかインタビューなのかよくわからない不思議な時間がはじまった。
〜〜〜〜
今から半月前の5月13日、比佐は30歳になった。撮影の仕事が立て込んでいたが、クライアントからの撮影依頼をなんとか割り振り、1人で車を運転して那須へと向かった。自分だけで誕生日を祝おう、そう思っていたからだった。
「30歳になるまでに絶対フリーでやるんだって昔から決めてたから、目標の年齢だったのかな。30歳になってカメラもニコンからキヤノンに変えたし、自分の中ではひとつの大きな区切り。誕生日って、今までは友だちと飲んだり、家族と祝ったり、1人で祝ったことなかったんだけど、なんか1人で祝ってみたくなって」。
「寂しがりやなのかも」と比佐は笑う。「仕事があっても、1時間くらいならいいやって友だちの家に行っちゃう。自分が寝なきゃいいじゃんって。なんだろう、期待に応えたいのかな。犠牲にしてる部分もあるけど、友だちのところ行ったら行ったで楽しいし、笑えるし」。
そんな比佐がはじめて誕生日を1人で祝い、その場所で、「1人も意外に楽しいじゃん」と気づいたのだという。そして、ぽろっと「肩の荷が下りた。お母さんが30歳で私を生んだから、その区切りだったのかな」と、言葉をこぼした。さっきまで冗談を言っていた顔が一瞬、引き締まり、そしてまた、穏やかになった。
「肩の荷」。
それは何なのだろう。これまで重ねてきた30年の重みのことだろうか。それとも、別の何か?
昭和55年、比佐は4人兄妹の末っ子として小名浜に生まれた。上は3人とも男の子。彼らの「対戦相手」になることを運命付けられて、この世に生を受けたのだった。「昔からプロレス技をかけられて育った(笑)。サンドバックになるのが仕事みたいな。投げられたり技をかけられたり、痛がったり泣いてみたり」そんな毎日だった。
痛そうに、苦しそうに、そうやって自らを犠牲にして兄たちを楽しませ、期待に応えようとしていたのだろう。いつも、誰かの期待に応えたいと思うような、そんな比佐の性格は、兄たちとのプロレスを通じて育まれたのかもしれない。そしてそれは、今もしっかりと比佐を形作る核となり、写真に生かされている。
「撮りたい作品を撮るっていうより、やっぱり人を撮るのが好き。今は、仕事で結婚式の写真をよく撮るんだけど、一瞬の表情ってずっとその人を見守ってないと撮れないから、自分が撮りたい写真っていうより、やっぱり相手に寄り添っている感覚。いい顔が撮れた時すごくうれしいし、この仕事やっててよかったって思える」。
絶対に押さえなければいけないその一瞬のために、何時間という式の間ずっと、ファインダーに顔をくっつけている。その光景を想像した。さっき、「肩の荷が下りた」と話した、そのときの表情が重なった。
「ファインダーから式を見てると、他の誰よりも気持ちが入ってるから、感動して泣けてきちゃうこともよくある。だけど、どこか冷静じゃなかったら大事な瞬間を見抜けない。アツい気持ちと冷静さをバランスよく持っていないと、いい写真って撮れないと思う」。
比佐は、誰かの幸せのために、情熱と冷静の均衡を保ちながら、目と手、指をシンクロさせる。そうやってできた写真だから、一瞬のうちに凝縮された幸せな時間が、そこに残るのだろう。
比佐のお気に入りの一枚。Hi-Magazineの表紙にも使われた。
たがしかし、誰かの期待に応えたいという思いは、同時に言いようのない疲れも生む。「1つの現場に何時間もいるし、その間はずっとファインダーをのぞきっぱなしだから、やっぱりすごく疲れる」。そんなとき比佐は、小名浜の町へと向かう。
「鹿島街道の御代坂を越えて小名浜に入ると、完全休みモード。あぁ〜帰ってきたって」。疲れがひどいときには、すぐには家には帰らずに、港や工業たちの夜景を見に行くのだという。大剣公園から小名浜の町を見下ろし、工場の夜景を横目に見ながら産業道路を疾走し、港のあの匂いを嗅いで、そうやって小名浜へ "還る” のだ。「小名浜って、私にとっては癒しの場所だから」。比佐ははっきりと、そう言った。
—ファインダーから見える小名浜の町って、どんな町?
カメラの仕事をしているのだから、きっと小名浜の写真もたくさん撮っているに違いないと考えた僕は、そう尋ねた。ところが、返ってきた答えは意外だった。
「小名浜って、絵になるところそんなにあるかなぁ。正直、写真撮りたいって思ったことってそんなに多くないかな」。そして、面食らった僕に少し遠慮するように、比佐はこう続けた。「私にとって癒しの場所だから、そんな時まで画面の構成とか光の加減とか考えたくない。もちろん、きれいなところだけど、癒されてる感覚とかを誰かに写真で伝えたいとか思ったことないし、自分だけの場所でいいかなって…」
比佐にとっての小名浜は、カメラから離れることができる場所。小名浜の空気を吸い、海の青を見、癒され、小名浜生まれの1人の女性に戻る。そう、小名浜は、比佐の「肩の荷」を下ろす場所でもあるのだ。
「肩の荷」。それは、比佐が誰かの幸せのために自分に課した「責任」のようなものかもしれない。兄のために技をかけられていたあの頃から、周囲の誰かを喜ばせたり、自分を必要としてくれる誰かの期待に応えたいという思いが、「肩の荷」になっていたのだろうか。
比佐は、椅子に深く座り直し、コーラを口に運んだ。他愛もない会話を重ねるうち、いつの間にかコーラは少しずつ減っていく。僕の2本目のビールもついにはなくなり、だんだんメモが危うくなってきた。だけれど、会話はより濃さを深め、核心めいた場所にせまっていたように思う。
どんなカメラマンが理想かと聞いた。返ってきた答えはいかにも彼女らしいものだった。「私は技術がないから、人とつながっていたい。誰かを撮るとき、その人とつながっているから撮れるんだと思う。写真がうまいから仕事が取れるってタイプじゃないし、だから、これからも人のつながりは大事にしたい」。
30歳になり、1人で誕生日を祝ったときに下りた「肩の荷」。それは、もう誰かの期待に応えたり、誰かのために写真を撮ったりはしない、ということではない。比佐のまわりにはこれからも誰かがいるし、これからもずっと、比佐は誰かのために写真を撮るのだろう。
肩の荷が下りたというのは、そういう自分を素直に受け入れることができた、ということではないだろうか。自分がどういう人間で、どういう写真が撮りたいのか。30歳の区切りに比佐は何かを見つけ、受け入れたのだと僕は思う。
いずれにしても、「肩の荷」は下りた。これまで小名浜の町で癒していた疲れも、これからは前ほど深刻なものにはならないだろう。癒しの場所だった小名浜の印象も、何かすこし変わるはずだ。もしかすると、これからは「小名浜の写真を撮ってもいいかな」なんて思ってしまうかもしれない。実を言えば、僕は、そんな彼女が撮影する小名浜の町を、密かに心待ちにしている1人である。
text and photo by Riken KOMATSU
profile
比佐 好江 Yoshie Hisa
1980年いわき市小名浜生まれ。高校卒業後、東京の写真芸術専門学校へ入学。卒業と同時にカメラマンアシスタントとして現場で経験を積む。いわきに帰省後は、情報誌への文章の寄稿、写真撮影など幅広く活躍。現在はフリー。
ブログ「膝手帖」 撮影依頼は hizagar0513@gmail.com
コメントをお書きください