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INTERVIEW

AOPONkonbain  アオポンコンバイン

志の生まれる場所

posted on 2013.1.16 / text & photo by Riken KOMATSU


 

僕が彼に初めて会ったのは、昨年の10月末。

地味な洋服に身を包んだ朴訥な青年は、

11月にUDOK.で開催された「雨読の毒」でデビューを果たし

12月にはclubSONICでオーディエンスの度肝を抜いた。

大熊町出身のサウンドクリエイター、AOPONkonbainこと青田孔孝。

故郷からの避難を余儀なくされながら、

新天地の小名浜で本格的な活動を始めた期待の新星は、

今どんな思いで、音楽と向き合っているのだろう。 

 


UDOK.での鮮烈なデビュー、SONICでの飛躍

 

ライブ仕様の音楽ソフト「Ableton Live」を武器に、

ミニマルなテクノを生で「演奏」するのが青田のスタイル。

DJではない。デジタル機材を使ったライブミュージシャンである。

「どこのオタクだろう」と思わせるような風貌と

なんとなくぼ〜っとした語り口のせいか、

初めて青田をみた時には彼がミュージシャンとは思えなかった。

けれど、それがまったくの先入観だったことを

僕はライブで思い知らされることになる。

 

UDOK.のイベント「雨読の毒」での演奏は何しろエキサイティングだった。

最低限の音数で構成された、硬質で繊細な音の連なり。

ミニマルで実験的なそのサウンドはとても素人のものとは思えなかった。

初めて青田の音楽を耳にするオーディエンスだけでなく、

長く音楽イベントに携わる者をも驚かせたに違いない。

本人は「そこまで自信があったわけじゃない」と謙遜するけれど、

僕の中ではまさに鮮烈なデビューだった。

 

1カ月後にSONICで開かれたイベントでも、

その選曲は驚きとともに受け入れられた。

口下手なようで実は物怖じしないキャラクターも愛され、

初めて会ったいわきのクリエイターとのつながりを生みだしている。

「水を得た魚」。

ここ数カ月の青田の活躍を思うとき、そんな言葉が思い浮かぶ。

 

「雨読の毒に出演させてもらってから、ほんとに忙しくなりました。

やっぱり充実して制作してる感じですね。

これまでは自宅での制作がメインで、ライブ演奏の経験は多くはなかったので、

こうして話の合う仲間がたくさんできて充実してますし、

これからはどんどんいわきのクリエイターとコラボしていきたいですね」。

言葉の節々に、青田の充実ぶりが感じられた。

 

専用のソフトAbleton Liveというものが青田の武器。素人目にはどこがどうなっているのかはまったくわからないような機材だが、青田はこれを器用に使いながら、音を繋ぎ出していく。
専用のソフトAbleton Liveというものが青田の武器。素人目にはどこがどうなっているのかはまったくわからないような機材だが、青田はこれを器用に使いながら、音を繋ぎ出していく。

「雨読の毒」での一幕。淡々と音を刻む青田。

 

音楽は、ダラダラやれればそれでいいかなと思っていた


昔はどんな音楽を聴いていたの?  と質問をぶつけると、

青田はちょっと嬉しそうに音楽とゲームの話をし始めた。

好きなことについて話す青田は、いつになく饒舌である。

 

「なんでテクノに目覚めたかと言うと、姉がYMOを聞いてたんすよ。

小学生くらいのときは、特に『Firecracker』とか『tong poo』とか、

カセットにダビングしてもう何度も聴きました。

聞くたびに、あのゲームに使えるなとか、あのゲームに合いそうだとか。

おれ、もともとはゲームを作りたかったんです。

それで、ゲームを作るにはプログラムに映像、音楽も必要だなって。

それで映像専攻で仙台の専門学校へ通ったんです」。

ちなみに、中高生の時に青田がハマったのは、

『甲殻機動隊』のゲームなどで知られるマイク・ヴァン・ダイク。

マイク本人も日本のアニメ、ゲーム好きとして知られているが、

青田もそのマイクに影響を受け、楽曲を買いあさり、

青春時代をゲームサウンドの世界に浸って過ごしてきた。

 

「あの頃は『store15nov』っていうレコードショップに入り浸ってましたね。

で、そのうちに、自分もレコード買ってDJしてみてえと思い初めて、

でもターンテーブルはすごく高かったんで、

家にあるレコードプレーヤーで無理矢理DJしてました(笑)」。


その後、青田は23歳で大熊町の実家に戻り、

双葉町にある原発関連の会社に就職することになる。

6年間の平和なサラリーマン生活。

大きなチャレンジもなければ、大きな失敗もない。

しかし、日々淡々と繰り返される終わりなき日常の中で、

音楽に対する情熱は、少しずつその温度を奪われていった。

 

「音楽については、半分諦めてました。

なんだろう、諦めと言うか、ダラダラやれればそれでいいかなみたいな。

レコードはけっこう買ってましたけど、あくまで趣味の範囲でしたし」。

 

あの事故がなければ、今も青田はダラダラと音楽を繰り返していただろうか。

あの事故は、青田に何をもたらしたのか、聞きたかった。

 

ゲームから音楽の道へ。青田のようなテクノ野郎はあちこちにいる。彼に一歩を踏み出させ、才能を開花させたものは、なんだったのだろう。
ゲームから音楽の道へ。青田のようなテクノ野郎はあちこちにいる。彼に一歩を踏み出させ、才能を開花させたものは、なんだったのだろう。

 

震災が、音楽のことを本気で考えるきっかけを与えてくれた

 

あの日、福島第一原発での仕事が休みだった青田は、大熊町の自宅で被災した。

凄まじい揺れを感じた青田だったが、

原発が “どうにかなっている” とは考えもよらなかったと振り返る。

 

「だって、絶対安全だって信じてましたから。

ミサイルが撃ち込まれたってびくともしないって、あの時もそう思ってましたよ」。

 

情報が錯綜するなか、3月12日に家族とともに田村市へ避難。

その後、埼玉の姉の自宅で数日を過ごし、

東京と会津を往復する生活を送るようになる。

しばらく経つと今度は福島県喜多方市へと移り、最終的にいわきへと移住。

腰を据える場所も、レコードに触れる時間もなく、

音楽への思いを苦々しく残しながら、慌ただしく毎日が過ぎていった。

 

「結局、安全神話なんてウソだったんですよ。

おれたちは、ミサイルが撃ち込まれても大丈夫だと信じ込まされてきたけど、

災害は人間にコントロールできるはずがないし、人はどこかでミスを起こす。

だから、100%安全なんて、どこにもないんだって。

これまで頭に染み付いてたものが、ほんとになんか吹き飛ばされたみたいで、

最後に残ったのは音楽やりてえな、って気持ちで、

それがずっと頭のなかでモヤモヤ残ってましたね」。

 

震災から1年半。青田は震災後に始めたばかりの仕事を辞めた。

そして、音楽の道を再び志しはじめた。

 

「いわきに来てから、一度仕事にも就いたんですけど、

どうしても音楽のことが忘れられなくて。

そんなときに、友人から思い切ってチャレンジしてみたらどうだと言われ、

もう一度音楽の道を志してみようかなって。

でも、ダラダラやるんじゃなく、どうやったらステップアップできるのか、

どうやったら成功できるのか、自分なりに本気で考えてみようと。

震災が、いいきっかけを与えてくれたのかもしれません」。

 

青田が目指したのが、小名浜でクリエイターの参加を呼び掛けていたUDOK.

フェイスブックを通して青田が連絡してきた昨年11月のことを

僕は今もはっきり覚えている。

 

「雨読の毒でプレイさせてもらえないか」という内容のメール。

あれから、青田にとっての怒濤の日々が始まり、今に至る。

「雨読の毒に出てから、なにか大きなものが動き始めた気がします。

イベントから1カ月しか経ってませんけど、とても速く感じますね」。

 

雨読の毒での青田。派手な動作はほとんどない。淡々と音楽を紡いでいく。職人気質なサウンドクリエイターである。
雨読の毒での青田。派手な動作はほとんどない。淡々と音楽を紡いでいく。職人気質なサウンドクリエイターである。

 

つながりを少しずつ大きくしていけたら、小名浜も面白くなる

 

音楽をもう一度やろうと決心させたものが、もう1つある。

UDOK.で出会った、同い年の2人の友人。

UDOK.の主宰でもありドローイング作家untangle.と、空間デザイナーの夜兎。

彼らとの出会いが、青田を音楽へ駆り立てる大きな推進力となっている。

 

「自分のやっていることを理解してはもらえないんじゃないか、

そんな不安もないことはなくて、自信があったわけじゃないんです。

でも、2人は、すっと自分の存在を受け入れてくれました。

2人との出会いは、これからの曲作りにも反映されるだろうと思います」。

 

もちろん、青田本人の持ち前のセンスはあったのだろう。

しかし、仲間たちとの出会いが青田の向上心をかきたて、

さまざまな表現を知ることで、青田は自らの表現に磨きをかけてきた。

青田のデビューは、青田一人だけでなし得たものではない。 

こうして「場」に仲間が集まることで、

誰かの才能が開花することもあるのだと教えられた。


「おれは、ほんと1人だと何も出来ないです。

後ろから押されてやるタイプだから、UDOK.に集まる人たちと言葉を交わしたり、

互いに表現し合ったりすることが大きな刺激になってます。

ベルリンにラブパレードって大きなイベントがあるじゃないですか。

あれって、実は田舎のほうが実現できるんじゃないかと思うんすよ。

地方にも、会ってみるとすごいなって思える人はたくさんいるし。

そういうつながりを少しずつ大きくしていけたらいいし、

それができたら小名浜も面白くなりますよ」。

 

そんなふうに仲間を想い、それをモチベーションにできる青田が少し羨ましかった。

 

UDOK.での1コマ。演奏だけでなくもちろんDJもやる。テクノがとにかく大好きなのだ。
UDOK.での1コマ。演奏だけでなくもちろんDJもやる。テクノがとにかく大好きなのだ。

 

おれ1人だけじゃ無理だけど、いろんな出会いが自分を成長させてくれる

 

これからの展望を聞くと、

「すぐさまプロを目指すというより、

仲間たちとのつながり活かしながら表現していく先に、

自分の将来もあるんじゃないかなって今は思うんです」と青田は答えた。

ローカルにシーンを生み出すことが、青田の大きな目標になっている。

 

「まあ、大人げない子供の意見かもしれないけど、

小名浜からカルチャーを発信していくことができれば、

別に大きなレーベルに自分を売り込まなくてもいい。

自分たちでアナログの楽曲を作ってみたり、

仲間たちと自由にやればいいし、それは田舎の方がいいんじゃないかって。

あの事故は、そういうことを考えるためのいい契機になりました」。

そう言って、青田は力強く「うん」とうなづいた。

                                 

原発事故の問題ばかりが報じられ、内側の声がなかなか伝えられない福島。

青田のように言葉少なく、しかし強い信念を持って生きている若者がいる。

極限の状態の中で自分と向き合い、

細い糸を少しずつ紡ぐように、自らの未来を描き始めている青田の言葉は、

彼の繰り出す重低音のように、腹の底にどんと響いた。

 

「おれ1人だけじゃ無理だけど、いろんな出会いが自分を成長させてくれるし、

そういう大きな出会いが、今の小名浜にはあるんじゃないかと思う。

なんていうか、志をともにする人たちが集まるというか。

だって、雨読の毒から、ほんと、なんかすごいっすもん。

今年は、何かもっと面白そうなことができそうな気がするんですよ」。


profile

AOPONkonbain

1982年福島県双葉郡大熊町生まれ

サウンドクリエイター。いわき市

を拠点に制作活動中。幼少よりテク

ノミュージックに触れ、アニメやゲ

ーム音楽などの影響を受けながら音

楽の道を志す。ハードなミニマルテ

クノが信条。震災後、大熊町から避

難し、現在はいわき市内に一人暮ら

し。現在はUDOK.所属し、作曲

日々送る。

 

 

目の前の青田は、イベントでかける曲のBPMとは対照的で、

カントリーミュージックを楽しむように、のんびりとしている。

最初に出会った頃の頼りなさはもうない。

むしろ、とても頼もしく思えた。

それは、言葉ではなく、人生そのもので語っているからだろう。

そして、仲間に支えられているからだろう。

 

 「何かもっと面白そうなことができそうな気がする」。

なんの気負いもなく、なんの打算もなくわくわくできること。

そんなところにこそ、復興のカギが落ちているのではないだろうか。

大熊町からやってきた寡黙なサウンドクリエイターから、

とても大事なことを教えられたような気がした。

 


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