FEATURE
生き続けるオクリエ
東日本大震災で被災し、解体が決まったビルに弔いの壁画を描こうというプロジェクト「オクリエ」。2011年8月に小名浜の鯨岡肉店ビルに描かれたのに続き、先月、いわき総合高校の北校舎にもオクリエが描かれた。美しい桜並木のオクリエを描いたのは、同校で美術概論を学ぶ3年生の生徒。2つのオクリエを結ぶものを探しに、小名浜のオクリエを描いたUDOK.のメンバーたちが、いわき総合高校を訪ねた。
※オクリエとは、被災し、解体の決まった建物に絵を描くことで、その建物に流れてきた歴史や時間、思い出などを共有し、建物を弔おうというプロジェクト。2011年8月、いわき市小名浜漁港そばの鯨岡肉店ビルに、untangle.、ナカジマシゲタカ、高木市之助によって描かれた。最期の別れの前に故人に施される「おくり化粧」にヒントを得ている。
—桜並木のオクリエ
解体されることが決まった北校舎に描かれた満開の桜並木は圧巻だった。その迫力は、私たちの想像を遥かに上回っていた。力強い幹から広々と枝が伸び、燃えるように美しい桜が描かれている。近づいて見ると、桜の花は人の手のかたちをしている。まるで、幾千幾万もの卒業生が、校舎に別れを告げるために「バイバイ」と手を振っているかのようにも、そこに流れてきた歴史を自らの手で刻もうとする在校生の思念体のようにも思えた。
幹から広く伸びた枝や、コンクリートの下方に描かれた根は、学び舎のある内郷という土地と確かに接続されている。その揺るぎなさは、建物を、生活を、あらゆる価値観を大きく揺るがせたあの地震に立ち向かおうとする若者の強い意思のようにも思えた。そしてそれらが、卒業や入学、出会いや別れを想起させる桜のイメージと重なり合い、北校舎を美しく彩っていたのだった。最後の最後のおくり化粧が、そこにはあった。ああ、これは本当にオクリエだと思った。
校舎の中から見たオクリエは、さらに美しかった。教室のガラスに描かれた桜の花が、ピンク色の柔らかな光を教室へと送り、映画を見ているような気持ちにさせてくれる。普段立ち入りが禁じられているためか、生徒たちも、その教室での日々を懐かしむように写メを撮ったり飛び跳ねたりしていた。無人だった教室に一瞬だけ戻った、かつての日々。大はしゃぎの生徒たちの声とそして美しい桜の花の組み合わせは、壮大なミュージカルのようでいて、一瞬の夢物語のようにも思えた。私は無心にカメラのシャッターを押すことしかできなかった。
—真冬の制作 「苦行」だったオクリエ
いわき総合高校のオクリエは、2012年12月末から新年1月初旬まで描かれた。美術概論を学ぶ3年生7人を中心に24名の生徒が参加。作画には、のべ27リットルものペンキが使われたという。絵が完成すると、在校生からだけでなく卒業生からもたくさんのメッセージが届き、ツイッターにも桜の画像が次々に投稿されたらしい。「描いてるときは、そんなに反響が大きくなるなんて考えてませんでした」と、1人の女子生徒が笑いながら話してくれた。
北校舎は、もともと1年生から3年生までの学級棟として使われていた。しかし、東日本大震災で被災。生徒の立ち入りは禁じられ、今年4月には解体される予定だ。思い出の校舎でなにかができないだろうか。そんなことをぼんやりと考えている時、美術概論を学ぶ1人の女子生徒が「校舎に大きな絵を描いてみたら?」と声を上げたそうだ。「はじめはほんとに単なる思いつきだったんです」と、言い出しっぺの女子生徒は話した。
そのほんとうに何気ない一言が次第に仲間たちを動かし、教師たちを動かし、ついには学校を動かし、桜のオクリエが描かれた。そして今私たちは、その思いつきから始まった絵を前に、頭がしびれるような衝撃を受けているのだった。彼らが生み出したものの大きさを感じ、「ほんとうにすごい生徒たちだなあ」なんて、心の中で喝采を送ることしか出きなかった。恥ずかしながら。
1人の元気な女子生徒が、当時のことを振り返って「とにかく手が冷たくて苦行だ~苦行だ~って思ってました」と笑って話してくれた。真冬の寒い時期、手にピンクのペンキを塗り、その手を何十回、何百回と冷たいガラスにぶつけて着色していくのだから、その苦労は察するに余りある。それでも彼女たちは、底抜けの明るさと、やかましいおしゃべりと、衝動的なエネルギーで描き切った。「描いてるときはこんな絵になるなんて考えてなかったです」と別の女子生徒。そのときは、ただひたすらに色を塗りまくっていたのかもしれない。
作画風景を録画した映像を見せていただいた。そこには、とにかくおしゃべりな女子生徒たちと、黙々と作業を続ける1人の男子生徒のドキュメントが残されていた。絵に関係のない会話。決まって繰り広げられる刑事ドラマ風の寸劇。開かないペンキの蓋との格闘。エヴァンゲリオンの主題歌。そこにはいつも笑いがあった。映像の終盤には、生徒たちがひたすら無言でペンキを塗る姿も残されていて、少しドキッとした。
「もっと長く描いてたような気がするんですけど、ほんの1週間だったんですね」と男子生徒が映像を見て振り返った。その一言に、生徒たちの気持ちが凝縮されているような気がした。それが後でどうなるか、なんてことではなく、今そこにある壁に向き合い、今を楽しむということに没頭できたからこそ出てくる言葉。あっという間に過ぎてしまう時間を、わたしたちは今、持てているだろうか。生徒の言葉が、なんだか逐一突き刺さった。
—生徒たちに、大人たちが語りはじめる
映像を見た後、美術室で交流会が行われた。小名浜のオクリエを描いたuntangle.、ナカジマシゲタカ、高木市之助が、オクリエに込めた思いや表現にまつわるさまざまなエピソードを話していく。東京で働くナカジマは、この交流会ために来磐。「オクリエを、あの鯨岡さんのビルだけで終わらせたくないという気持ちがずっとあったので、こうして高校生が引き継いでくれたのはほんとうにうれしいことだし、ぼくらもまた新しい作品を残さなくちゃいけないという気持ちになりました」と、この日の出会いについて話した。
3人の中で、特に特別な感情を抱いていたのが、いわき総合高校の前身・内郷高校のOBである高木市之助。高校時代の思い出や、デザインを学んだ頃のこと、そして故郷に帰ってきた今の自分。いつも以上に熱を込めて話していた。この日集まった7人の生徒は、3年間で美術やデザインを学んできた生徒。進路はさまざまだが、高木は「どんな仕事についても、デザインの視点や考え方は必ず役に立つ。3年間で学んできたことを、自信を持って表現していってほしい」とエールを送った。
—生き続けるオクリエ
オクリエは、絵を描いて終わりではない。続きがあるのだ。建物が壊された時、その跡地に立った時、オクリエの姿が、そこに存在しているかのように思い浮かぶ。ホームセンターに並ぶペンキを見た時、別の場所で解体される建物を見た時、町中で車を運転しているようななんでもない時にも、オクリエがふと思い出されたりもする。記憶の中に眠ってしまったものを引っ張り出す引力が、オクリエにはあるのかもしれない。
そして、思い出すたびに、オクリエがなにをもたらしたのか、オクリエで自分は何を感じたのか、町がどう変わったのか、あの震災がいったい何を奪い、何を与えてくれたのかを考える。考えた先に出てくる答えは、その時自分が置かれた状況によって毎回違う。だからまた考える。忘れた頃に思い出して、また考える。そこには、明確な答えや、「〜〜べきだ」という議論や、ましてや正義などない。あるのは、考えることの繰り返し。
いわき総合高校のオクリエでも、さまざまなことを考えさせられた。小名浜のオクリエとは違う問いも生まれた。私たちと同じように、生徒たちもまた、それぞれ考えるだろう。先生方も考えるだろう。OBも父兄も、いろいろなことを考えるかもしれない。自分について、町について、そして震災について考えることを、姿のないオクリエは私たちに突きつけるのだ。
オクリエとは、建物を終わらせるために描かれるものではなく、町の歴史や、思い出や、「問い」を生かし続けるために描かれるものなのかもしれない。私たち大人が暮らす「答えを出す世界」の対極で今だけを見据え、笑い、悩み、考え、そしてまた笑う彼らを見て、オクリエは生き続けるのだと確信した。問い続ける限り、オクリエはなくならないのだと。私も問い続けたいと思う。彼らの描いたオクリエと共に。
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Hiwa (月曜日, 11 3月 2013 15:07)
いわき総合の卒業生です。
卒業後に宮城県に進学して地元を出てから、いわきへは年に1度帰る程度になってしまっていました。
先月、いわきにいる父からの電話で、総合の校舎解体を知りました。
3年間過ごした校舎の形が変わってしまうのはやっぱり悲しいのですが、
写真や記事からは制作した生徒たちの前向きな気持ちが伝わってきて心が温かくなりました。
そして、桜の絵と写真の美しさに胸が熱くなりました。
思い出の詰まった美術室にも教室にも、もう戻ることはできなくなりますが、
また新しく生まれ変わる校舎でたくさんの生徒たちが笑顔のときを過ごしてくれたらいいなと思います。
震災から今日で2年。負げでらんねべした!がんばっぺ、いわき!