FEATURE
オクリエの3日間でおきたこと
小名浜には今、取り壊されるのを待つだけの建物がいくつもある。大地震と巨大津波に被災し、取り壊すこと自体は決まったものの、日時が確定しないために放置されているのだ。かつて小名浜の風景の一部となっていたそれらは、地震や津波の傷跡そのままに、壊されるその日まで、ただ枯れゆくのを待つ巨木のように風雨に晒される運命。そこには、そこで生活や生業を営んできた人との歴史があった。小名浜の一部として小名浜の風景を形作ってきた時間の流れがあった。それなのに。
人は、その命を終えたとき、残された人たちによって見送られる。映画『おくりびと』では、ご遺体に最後の「送り化粧」を施し、冥土への旅支度を手伝う「納棺師」の姿が描かれている。1人の人間の最後の瞬間をよりよいものとし、次の世代にその命を引き継いでいくための儀式。こうした弔いの儀式が、長い間会うことのなかった人たちが集まるきっかけになり、それが、新たな出会いを生んだりもする。人の死が何かを生むことも、また、あるのだ。
建物も、同じではないだろうか。ただただ誰の目にも触れないまま、壊されてしまっていいのだろうか。建物にも、最後の最後に輝く時間を与え、そこにあった歴史や物語を共有できる弔いの儀式がなければならないのではないだろうか。それが、何かを生むことがあるのではないだろうか。2人のペインターの胸に生まれたそんな問いが、この「オクリエ」の源泉となった。取り壊しの決まったビルに絵を描き、弔いの場を設けよう。オクリエはそうして始まった。
東京で建築設計士として働くナカジマシゲタカ。そして、小名浜出身で小名浜在住のドローイングアーティストたんようすけの2人が、小名浜港そばで被災した鯨岡肉店のビルに絵を描く。地上5階建て。その大きなビルは、かつて精肉工場であっただけでなく、鯨岡さん家族の住まいでもあった。津波に被災し、取り壊されるのを待つ今も、重量感のある存在感を残している。
「被災してしまったことで使われなくなり、取り壊しをただ待つだけになってしまった建物ですが、役割を与えることで新しい命を吹き込むことができると考えました。それが、そもそものきっかけです。そしてそれは、建物の居住者だけではなく、その地域に暮らす人にとっても前向きな気持ちになるようなものでなければなりません。その場所じゃなければ描けないもの。それはなんだろうと何度も考えました」(ナカジマ)
ナカジマは、これまでヒップホップカルチャーの1つとされる「グラフィティ」から強い影響を受けてきた。しかし、田舎の港町では、それは「そのへんの落書きと一緒」と考えられてしまいかねない。ナカジマは、何度も小名浜に通い、景色を眺め、街を歩いた。その場所に相応しい絵を探すためだ。そして、それを続けるうちに、ぼんやりと、頭の中にイメージがわいていた。それは、松の木のイメージだった。
「このビルのあるあたりは、昔は砂浜だったそうです。海辺には、よく松が防砂林として造成されますが、小名浜のこのあたりにも、大きな港ができる前はそれがあったと聞いていました。それで、松を描こうと思い浮かべたんです。海から街を守る存在でもあるその松を象徴的に描き、木が成長するように、建物への思いも成長してくれたら」。そんな思いを込め、ナカジマは、緑の星のような絵を松葉に見立て、壁にいくつも描いていく。
これに対したんのほうも、向かって右側から、流れる光の筋のようなラインを有機的に、そして時に力強く引いていく。緑や黄色、青などの塗料を使いながら引かれるラインが、少しずつ命を吹き込まれるように伸びていき、左右から中心に向かって色が増えていく。その様は、見ていて壮観でもあり、どこか優しげであった。
「私が描きたかった線は、降り注ぐ光の流れでした。毎朝のようにこの辺りを散歩しながら眺めていた、小名浜の夜明けを告げる朝の輝きでもあり、ため息が出るくらいに西の空を染め上げる夕焼けの光でもあります。そんな小名浜の光が、魚のように、あるいは海風のように建物にからんでいくイメージで線を引こうと考えていました」(たん)
グラフィティの手法を取り入れたナカジマに対し、たんの作風は「線」。かつてランドスケープデザインを学んだたんのラインは、それ自体が生態系だ。まるで海底の藻場のように、たくさんの命を抱き育む、優しさと威厳がある。ナカジマが描いた松葉の星を縫うように、たんのラインは引かれていく。まるで流星が流れていくような輝きを放ちながら。
2人が建物に向き合う姿や、ビルに描かれたオクリエは、やがてビルの持ち主、鯨岡さん家族の心にも変化を与えていった。はじめは「落書きされるのではないか」と心配していた鯨岡さんも、何度も「きれいだ」と声を出して喜んでくれた。奥さんも「きれいだね」と建物を誉めていた。お嬢さんは何度も「かわいい」と口に出し、写メを撮っていた。
奥さんは、このオクリエのことを職場の同僚や親戚の方たちに話したそうだ。それがきっかけになり、「あの部屋ではあんなことがあったね」とか、「先代の社長はあそこであんなことをしていたね」とか、建物との思い出を語ってくれるようになったという。故人を偲び、天国に送り出すための準備を施そうというオクリエが、多くの人のコミュニケーションを生む。それは、2人が強く願ったことでもあった。
「今回の経験は、何より鯨岡さんに喜んでくれたことがうれしかった」とたんは振り返る。「311の後ずっと小名浜にいましたが、何か地元でボランティアをしたわけでもありませんでした。でも今回のオクリエは、自分にしかできないものを1つのカタチとして残せたのかなと思ってます」。たんの表情はいつにも増して晴れやかで、一仕事を終えた充実感が溢れ出ていた。
「鯨岡さんと話してみて、地震や津波がほんとうに多くのものを奪い去ってしまったんだと痛感させられた」というナカジマ。最後には「心が揺さぶられて、自分のために作品を描くという思いがなくなり、鯨岡さん家族のために描こうと思うことができました」と振り返った。東京で活躍するナカジマだが、オクリエを通して小名浜の一部となった。東京に帰った今は、「小名浜シック」になってしまったという。
鯨岡ビルを見てふと思う。このビルの存在感を、かつてここまで強く感じたことがあっただろうかと。何も存在しないかのように、この道を通り過ぎてはいなかっただろうかと。でも、ここには「歴史」が、「暮らし」があった。そのことを、オクリエが改めて気づかせてくれる。オクリエとは、命を吹き込むものであり、また、命がもともとそこにあったということ気づかせてくれるものなのだ。
「オクリエはこれで終わりではない」。たんはそう語る。「今はまだ絵としても、化粧としても途中の段階です。もっと、奥行きのある光の流れが松とからむような表現を進めていこうと考えています。そして、絵としての完成がオクリエの終わりではなく、これからの自分たちの街や家、場所について考えるきっかけになってくれればと考えています」。
自分たちの街や家について考えるきっかけ。そうなのだ。この日ここに描かれたものは始まりに過ぎない。この絵を、ただの壁画にするか、弔いのオクリエにするかは、これを見た私たちにかかっているのだ。そしてそこではじめてオクリエは遺伝子となり、これからの小名浜に引き継がれていく。壊されるためにつくる。一見矛盾しているように思われるかもしれないけれども、オクリエは、「作る」や「壊される」の先にある「輪廻」そのものなのかもしれない。
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たんようすけ (木曜日, 04 8月 2011 09:25)
オクリエの3日間から、少し日が経ちました。
これから後半の制作に取り掛かるにあたって、前回の自分の作業との対話もからんできます。
こうして、一度インタビューを受けて記事にしてもらうことで、自分たちの考え方やできたものに対して、改めて客観的にみる機会ができました。
本当にありがとうございました!
そして、後半もよろしくお願いします。
和田誠一 (水曜日, 10 8月 2011 22:38)
7月18日、たまたま通りかかって写真を撮らせていただいた、静岡県で塾の教師をしている者です。報道では分からない街の様子、人々の顔、いろいろなものを見て回り、たくさんのことを考えさせられました。
戻ってから子どもたちに写真を見せ、感じたままを話しました。復旧が進みつつあるとはいえ、直接の震災を受けていない子どもたちは、強い衝撃を受けていたようです。しかしその中で、「オクリエ」に象徴されるように立ち上がろうとしている人々の姿に感銘を受けてもいました。私たちはこの場所で出来ることをしていきます。遠く離れてはいますが、一緒にがんばりましょう。
ナカジマシゲタカ (月曜日, 15 8月 2011 01:15)
>和田さん
その時お話しさせて頂いたナカジマです。僕らの知らないそうしたところでも、この活動を通して、子供達が何かを感じて、考えてくれていることを知って、とても嬉しいです。それも和田さんのおかげであると思いますし、直接来て伝えてくれたことに感謝します。どうもありがとうございます。僕自身小名浜に住む人間ではないのですが、一緒に頑張りましょう。