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ESSAY

とある非被災者の思い

text by yujihisa  /  posted on 2012.5.8

 

正直、あんな震災が起こるまでは、

こんな田舎のことなんて全然考えてなかった。

長いものには巻かれてそれなりのお金を稼いで、

東京で安定した生活ができればいいな~、なんてことを考えていた。

社会人生活がマンネリ化し、そんな考えにも迷いが出てきた中で、あれは起こった。

 

実家が津波をくらう瞬間も、放射能汚染のニュースも、

地元の人が小名浜の復興のために頑張っている様子も、

僕は転勤先の遠い地で見ていた。

 

すぐに食糧や物資を持って行きたかった。

両親に「全部おれが払うから、何も心配すんなよ」とか言えたら、

どんなにいいだろうと思った。

「金があれば…」「人脈があれば…」「小名浜に住んでれば…」と、

ないものねだりばかりして自分に出来ることは何もないと思い悩み、

震災が起きて半年くらいはずっと悩んでいたし焦っていた。

自分も被災してれば…なんて思いが頭に浮かびもした。

被災者でもなければ、非被災者でもない立場がつらかったのかもしれない。

 

色々悩んだ結果、結局は自分に出来ること、

まずは家族のために動こうと思い至った。

津波でぐちゃぐちゃになった家の片付けとか、話を聞くとか、

出来ないが、やらないよりはマシだろうと思って行ったのだ。

 

ちゃんと助けになっているのか? と問われれば、自分にはそれはわからない。

労働力としては不甲斐無いし、持ってくる金/物資より、

滞在して使う方が多かったような気もしている。

 

何度か帰るうちに、そこで見たり聞いたりしたことを

他の地域にも伝えていきたい…という思いに駆られるようになった。

今は会った人に口頭で話すくらいだが、

いずれはもっと多くの人たちにも伝わるようにしていきたい。

伝えて、復興を応援してくれる外の人たちを集める…。

まだまだ準備段階だが、これこそ自分の人生の目標の一つと今は思う。

 

腹は決まっても、たまに些細なことでつらくなる時もある。

「出身どこ?」って聞かれて、「福島です」って答えた時の微妙な表情と間とか。

ネットで瓦礫受け入れ拒否の賛否両論のやり取りを見たり、

「福島の食べ物なんて絶対食べない」を見るとやはりつらくなる。

でも、「拒否/受け入れ」「食べる/食べない」とか

震災後多くの選択肢が強制的に与えられてきたけど、誰がどの選択肢を選ぼうが自由だ。

 

何を選ぶにしても、

将来、自分の子供に「この地震のときに、何してたの?」と聞かれたときに、

自分のしてきたことを胸を張って自信満々に言えるようになっていたいと思う。

だから、僕は地元の復興に一役買いたい。

 

震災はポジティブな効果ももたらしてくれた。

故郷への愛着を生んでくれたし、大切な人をちゃんと大切にする大切さも教えてくれた。

「本当にこのままでいいのか?」と思いながらもだらだらと過ごしてきた人生に、

切れ味鋭いメスを入れてくれた。

地元の人ですらあまり知らない、

とてもいいコンテンツがあることを知るきっかけを作ってくれた。

自分たちが持つよいモノを伝えることが出来ていなかったことを痛感し、

今はそれを伝えたい人がいっぱい生まれてきた。

県外を見てみると「被災地のために何かしたい、助けたい」と考えている人が少なからず出てきた。

 

小名浜の復興には「内からの力」「外からの助け」両方が必ず必要だ。

内にも外にも「もの言わぬ少数派」は存在する、と思う。

内と外をつなぐ部分に、僕は一役買える(と思い込んでいる)。

きっと僕にこそできることがあるはず。

実家の復旧、復興もまだまだ。「伝える」準備もまだまだ。

1つひとつ手探りで。

 

 

文章  yujihisa

1984年いわき市小名浜生まれ。小名浜第二中学校、茨城キリスト教学園高校を経て千葉大学を卒業。

現在は、大手メーカー販売会社で印刷業へのコンサルティングを中心に活動。趣味は写真と映像制作。

夢は小名浜で人が集まるお店をやること。


 


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コメント: 2
  • #1

    Y.O (月曜日, 21 5月 2012 23:00)

    非被災者ということばに引き寄せられました。
    実家と家族は被災したけど、自分はあの時もそれ以降もいわきにおらず、
    でも、被災者ではないともいい切れず・・。
    家族との距離感まで生まれてしまうような・・。
    何ともいえない気持ちですが、自分の気持ちに整理をつけられるよう、
    ひとつひとつ手探りで進んでいくしかないのかな、とこの記事をよみ再確認しました。

  • #2

    K.M (月曜日, 11 6月 2012 15:17)

    3.11。私もかなり揺れた東京の空の下、
    「いわきの実家は大丈夫だろうか!?」の次に頭をよぎった事は
    「原発大丈夫なの!?」でした

    16日には主人と車を飛ばし、水戸まで常磐道、そこから平の実家まで国道。
    両親と愛犬、彼らの荷物を車に乗せられるだけ乗せ、すぐさま東京の自宅へトンボ帰り。
    放射能垂れ流しで、水道も出ず、スーパーも閉まってる状態の中
    近所の人たちが口々に「○○さんはいいわねぇ。私たちも逃げたいのにガソリンはないし。。」の言葉が何とも忘れられない。

    いまだ、目黒区のスーパーで福島県産を目にすることほとんどなく、たぶん産地を気にしてみんな買わないのでしょうね。
    そういう私も育ち盛りの息子2人がいるので千葉・茨城でも敬遠してしまう。
    難しいですね。

    実は私も「シオン」の卒業生です(ひと回り上ですが 笑)
    きっと、あそこの先生なら「ともに祈りましょう」というでしょうね。懐かしいです