あの日
Re:write vol.6 / text & photo by tantan
2011年3月11日 「あの日」だ。
地震、津波、断水、放射能、被曝、風評、死傷者数・・・。あらゆる「災害のことば」で塗り固められた「あの日」。けど、私は足が海水に浸かることも、家が浸水することも、直接津波を見ることもなかった。家が傾き、ガラスが割れ、玄関が歪んで、風呂場のタイルが割れたくらい。すぐ近くの小名浜港へ行けたのは、「あの日」から3週間後だった。
「あの日」までは、薄暗い早朝の港を散歩するのが日課だった。それなのに。
私にとって「あの日」は何だったのだろう。いつものように家を出て、コンビニに寄り、出社した。前日と変わらない。「あの日」は金曜で、仕事の後に友人と会う約束をしていた。最近彼女ができた別の友人へ贈るプレゼントを、その友人と一緒に買いにいく予定だった。明日は休みだし、いつものbarに飲みにいきたいなとか思ってたろう。次の日の土曜日は、4月から入居する物件の契約書を交わす予定もあった。
あの時、聞き慣れないケータイの着信音が鳴り響いた。社内一斉に。地震速報だと気づくのには、少し時間があった。揺れが長く大きくなるにつれて、ヤバい地震だと認識した。新潟で中越沖地震を体験していたから割りと冷静でいたつもりだったけれど、テレビをつけて少ししたら、大津波警報10メートル・・・。家には祖父母が2人きり(やばいやばいやばい・・・)。心臓がドクンドクンいった。
電話は繋がらない。家の下敷きになっている祖父母を何度も想像した。急いで家に向かったけれど、渋滞で進まない。ツイッターで連絡が取れる友人の無事は確認できた。でも家族の無事が分からない。約2時間後、姉から祖父母を無事に避難させたというメール。やっと少しホッとできた。
雨が降り、雪になり、夕焼けがきれいで、ラジオは緊急を伝え、車は余震で揺れ続けた。なんだこれ、何?何で? 混乱のなかツイッターでつぶやき続け、友人たちにメールを送りながら、必死で自分に冷静さを呼びかけた。
「あの日」から異常なテンションが続いた。
姉の家族と祖父母と両親、9人で終日顔を合わせた生活は慣れない。1歳~88歳までの年齢層。テレビで繰り返し流されるのは、宮城や岩手の津波の映像と、ACのコマーシャル。とりあえず発狂しそうになる。不安でピリピリした家の中の空気だけは認識できる。祖父は、1人で立ち上がるのもやっとで耳も遠いのに頑固だ。ラジオの情報を伝えるだけでも、怒鳴りあうようなことが多くあった。それでも家族が元気だった。
「世間は冷たい」 「自己中が増えた」
「結局、自分さえ良ければいいんでしょ」そんなことが言われる。
だけど、「あの日」、みんなそんなだったろうか。離れて暮らす家族や恋人や大切な友人の無事を心に穴があくほどに願って、何度も何度も電話をかけ、震える手でメールを打ち、ツイッターでつぶやき続けた人、自分が怪我しようが、水に浸かろうが、家が倒壊しようが、それでも大切な誰かを守りたいと、必死でこぶしを握り締めた人がどれほどいただろう。
豊間に暮らす叔母は、目の前で家と車と義母を失った。叔父は海辺の病院で患者さんを負ぶって避難し、足を怪我していた。数日後に小名浜で会えたとき、叔母は笑顔で冗談を言い、甥っ子をたかいたかいした。すぐに避難所に戻るという叔母に、「気をつけて」以外に何も言えなかった。医療従事者の叔父叔母は「あの日」から、ずっと避難所や病院で働いている。
「あの日」までしてきたこと、
「あの日」からしてきたこと、
そしてこれからしていくことを、
「あの日」からずっと考える。
決して一人前とはいえない自分。守るべき妻も子供もいない自分。放射能の影響で、家族が別々に避難しなくてはならないと迫られたときの自分。「あの日」の家族の顔、友人の声、小名浜の姿・・・。空が飛べるわけでも、ものすごい力持ちでもない。
「あの日」から学んだのは、等身大の自分。そして、大切な友人たち。
私にとって「あの日」は、そんな日になった。
2011.4.23 up
profile tantan
1983年小名浜生まれ。小名浜二中、磐城高校を経て、東北大学工学部建築学科卒業。長岡造形大学大学院造形研究科建築デザイン修了。2010年下半期から故郷小名浜へ。建築設計・デザインを生業とし現在に至る。
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