いわき・ら・ら・ミュウ

Re:write vol.2 / text & photo by たっきー

 

ここ数年、地元に帰省するのは年に回程度。帰るたびに必ず行くのが、いわき・ら・ら・ミュウ。実家からは徒歩15分くらいのところにある。昨年の月、ら・ら・ミュウで、後に「ベストフレンド」と呼び合うことになる、ツイッター友達となる人に出会えた。

 

その時のら・ら・ミュウは、魚屋さんの威勢の良い掛け声が響き、貝焼きと生ガキ剥きに行列ができて、とても賑わっていた。そんな中で、「かつを」の写真をiPhoneで撮っていたところ、お店の方が「ツイッターにアップすんですか?」と声を掛けてくれた。

 

実は、魚屋のおっちゃん(失礼!)からまさかツイッターという言葉を聞くとは思ってなかったので、結構びっくりしたのだが、「えぇ、そうなんですよ!」と返したところ、「ハッシュタグは #iwaki で!」と細かく指定され、そのことをかつをの写真付きでツイートしたら、そのおっちゃんを知ってる方から「それ、○○さんでしょ?(笑)」と突っ込みが入りまくり・・・。

 

という流れで、本当にひょんなことから、いわき在住とか、いわきに縁がある方々と、ツイッターでの交流が増えていった。田舎っていいな、と思ったある夏の日の出来事だった。

 

 

 

あれからヶ月後。地震と大津波が、ら・ら・ミュウを襲った。あの日、大阪の事務所が入るビルも大きく揺れ、初めて外に避難した。周りで誰かが「東北の方で地震があったらしい」と話していたのを聞き、すぐに実家の家族に電話したが固定電話も携帯電話も全くつながらず。そうこうするうちに、事務所のテレビで各地に津波が押し寄せる映像が映し出され、最初は何が起こったのか分からなかった。

 

阪神淡路大震災の被災直後の映像を見た時もそうだったが、何かの映画を見ているようで現実感がなかったのである。その後、いろんな人とツイッターでやり取りしている合間に、ら・ら・ミュウの魚屋のおっちゃんともツイッターでようやく連絡が取れたが、返ってきたのは、ただ「ひどい」の一言。何かとてつもないことが起こったことだけは分かった。

 

数日後、地元の方が小名浜港周辺の映像をYoutubeにアップしてくれた。それを見て愕然。車が何台も積み上がり、道路は地割れや陥没でめちゃくちゃ。あちこちにがれきの山が残り、信号機は電気が消えて倒れ掛かってる。魚市場前には陸に船が上がっているという、本来、あり得ない光景。たぶん、これを見た時、震災後、初めて泣いたんだと思う。本当にショックだった。

 

子供の頃、父と一緒に釣りに行ってたあの頃の小名浜港じゃない―――

 

ら・ら・ミュウの映像も見ることができたが、魚屋側、レストラン側、全部ぼろぼろだった。2カ月前の正月に行った時にも、毎回必ず買うバニラと白桃のミックスソフトクリームを買って食べたばかりなのに、たったの2カ月後にこんなことが起こるとは・・・。自分の理解をはるかに超える出来事が起こっていた。

 

 

 

今回、会社の特別休暇を取得し、実家に一時帰省した。被災したあの日からちょうどカ月になるら・ら・ミュウも見てきた。すでにある程度の片づけは行われていたが、津波の爪痕ははっきりと確認できた。すでに、魚屋のおっちゃんからは、「小名浜から撤退することになった」と連絡があったので、その時点でもショックは受けていたが、実際に津波に襲われた現場を見て、その苦渋の決断は理解できた。この復旧・復興は簡単ではない、と思い知らされる光景が広がっていた。

 

小名浜にメッセージを寄せるにあたり、思い浮かんだのは、やはり、ら・ら・ミュウ。港町で生まれ育った自分にとって、ら・ら・ミュウは本当に思い入れのある場所。初めて行ったときは、アクアマリンふくしまと合わせて、「地元にいいとこができた」と素直にうれしかった。それだけに、実際に被災した現場を見て、「ら・ら・ミュウは、今後どうなってしまうのだろう」と思えてきて、とても辛い気分になった。

 

でも、またいずれ、去年の夏のように賑い、活気のあるら・ら・ミュウが戻ってくる日が「必ず来る!」と信じたいし、信じてる。待ってる。ら・ら・ミュウのお店のみなさん、時間は掛かると思うけど、どうかがんばってください。遠い大阪から、小名浜の街と、港と、ら・ら・ミュウの復活を祈ってます。

 

合い言葉は、「がんばっぺ小名浜! 」

 

 

2011.4.15 up

profile たっきー

1974年いわき市小名浜生まれ。小名浜一小、小名浜二中、湯本高校を経て、

現在は大阪でIT関係の企業に勤める会社員。

 

 

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