ESSAY
東京に暮らす、福島出身の1人
2011年3月11日 東日本大震災から、もうすぐ2年が経とうとしている。
この2年という時間を長いと感じるか短いと感じるか、
また、復興が進んだと感じるか否かというのは被災三県でも違い、
更に言えば県内、地域においても異なるだろう。
私の地元、福島県いわき市もその被災地の1つ。
津波や原発事故の影響を受けた福島県沿岸南部(浜通り)の地域である。
私は、東京の大学に通うごく普通の福島県出身者だ。
それは同時に、福島出身でありながら「被災」を知らない人間の内のひとり、ということを意味している。
あの日は、いつものように大学から帰宅し、夕飯の支度をしている最中だった。
地震が起き、冷静さを取り戻せないままテレビをつけると、
地元である小名浜港(いわき市)が津波で覆われている映像が目に飛び込んできた。
私の家族や友人は運良く命を失うことはなかったが、家が流された友人は多かった。
震災後、あの日の状況を沢山の人たちからよく耳にする。
津波に車ごと流され、フロントガラスを割って命が助かった友人の母の話、
避難をするか否かの決断に関して家族の中で分断が起こった友人の話、
被曝を覚悟で地元に残った先輩の話。
今もなお原発で働く同級生の話。
ここでは書ききれない、数多くのリアルな体験談を耳にしてきた。
しかし、どこかでそれらの話を客観的、もっと言えば「他人ごと」としか聞けない自分がいたのだった。
家族や友人が被災をし、家が流されているのにも関わらず、どうしても気持ちが共有できないのだ。
それはあの日から2年という月日が経とうとしている現在も変わらない。
震災以降、周りから尋ねられる質問の多くは「大丈夫だった?」という問い。
その問いに「いいえ、大丈夫ではないです」と言いたいところだが、
自らはここで安全に暮らして、水や食料も暖もとれていた。
そんな人間が、被災者ぶって「大丈夫じゃないよ」というのは
地元にいる人たちに向かって失礼なのではないかといういたたまらない思いがあったのだ。
そんな思いから「被災をすればよかった」と言う東京に住む同郷出身の友人もいた。
もちろん不謹慎に聞こえてしまうのは当然かもしれないが、
東京あるいは県外に住む福島県出身者の中には、
このような思いを声高に発しないだけで、内心で抱いている方も少なくないのではないだろうか。
気持ちが共有できないとはいえ、被災の当事者とは関係がある。
被災地に関係や繋がりのない東京の友人とは温度差を感じる日々が続いたのだった。
周りから「お前は脱原発でしょ?」「今日は避難区域から来たのか?」と言われたり、
マスクをしていると「放射能を意識しているの?」と笑いながらからかわれたこともあった。
その度に、原発に勤める友人や地元に住んでいる家族の顔を思い浮かべながら
「なんでそんなことを言われなければならないのだろう」と怒りをおぼえた。
一方で、被災の経験もせず、今福島に住んでいない私には、彼らに何も言い返せない。
情けなく、悔しく、無力感に襲われた。
東京での「脱原発デモ」や「福島の子どもたちを避難させるためのデモ」の様子からも同じ感情を抱かざるをえない。
私のような当事者と繋がりがある人間でさえも、「東京」とは気持ちがかけ離れ過ぎている。
安全な場所から言葉を発し行動を起こしても、
実際地元に住んでいる人、あるいは住んでいる人と関係がある人にとってみれば、
お節介で、かえって迷惑な話で終わってしまう。
被災の気持ちがわかる場面と、そうでない場面が複雑に混じり合う「福島出身、東京在住」という立ち位置。
私は、それを再度思い知らされるのだった。
しかしながら他方で、「あいつ(私)が来た時は福島の話はやめよう」というような、
暗黙の禁句ワード的な状況(空気感)を作ってはいけないと私自身は意識している。
なぜならば、「フクシマ」という原発の構造や、
震災を機に問い直された地域の様々な問題(特殊性)を福島だけの問題として完結しく欲しくないからである。
私は、それに気づいたときから、
その「温度差」を感じる東京だからこそ福島の状況を伝える意義があり、
被災を知らない私が「個」としてできることがあるのではないかと考えるようになった。
「東京」からは見えない地元とのギャップ、
客観的に眺める地元の変化というものに敏感に気がつきやすいのが「外」の人間の特質でないだろうか。
福島出身の外で暮らす「声になりにくい声」を紡ぎ、そして発信する。
東京に暮らす、福島出身のひとりとして。
文章/西丸 亮
1988年いわき市小名浜生まれ。中央大学大学院在籍中。
2010年に福島県出身者たちとTEAM iupsを設立。
外部からいかに地域に携わるかをテーマに、学生が主体となって幅広く活動中。
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