名もなき海
tetote essay vol.1 / text & photo by Riken KOMATSU
仕事や恋や、自分のいろいろなことがうまくいかないとき、なぜか、海に行きたくなる。特別そこに何かがあるというわけではないのだけれど、心の端っこがうずいたり、無性に誰かに会って言葉を交わしたいと思うようなとき、僕の足が向かうのはなぜかいつも海だった。
砂浜に立つ。
波打ち際でくだける波も、優しくリズムを刻む波の音も、晴れているはずの空も、どこかに物悲しさを湛えている。遠くにタンカーが見える。ぼおぉぉぉっという沈むような音をひとつ。それに驚いたカモメが、さささっと軽い音を立てて飛び立っていった。僕の、少しだけ鈍くなった鼓膜に、ざざぁ、ざざぁという波の音だけが響いている。
特別美しいというわけではない。遠くにマリンタワーが見えるのだって「絶景」にはほど遠い。たくさん観光客が訪れるような場所でもない。湘南や九十九里や葉山に比べたら、小名浜の海なんて名もない野の花のようなものだ。それに、小名浜の夏は短い。夏を満喫できる時間はあっという間に過ぎてしまう。この海が海らしくいられる時間は、そう長くはないのだ。海らしい溌剌とした存在感があまり感じられないのは、そのせいだろう。
でも、そんな海だからこそ、僕たちはその姿に「海」ではなく別の何か、自分の心の中や寂しさや、大切な誰かの表情を探し出してしまうのだ。
ざぁー。ざぁー。ざぁー。
規則的に繰り返す波の音が、僕の感覚を少しずつ鈍くしていく。
浜辺をぼーっと歩く。足跡を数える。何を撮るでもなくシャッターを切る。空気を吸う。僕が海でするのはせいぜいこのくらいだ。でもふと気づくと、さっきまで波に映し出されていた孤独が少しだけ薄らいでいる。そこにあるのは、流れ出した感情のわずかな余韻。その余韻を静かにそっと抱くように、ざぁー、ざぁーという音だけが、静かに、そして終わることなく繰り返し響いている。
小名浜の海が、もの悲しさを湛えて優しくそこにあるのは、僕と同じように、寂しさや孤独をこの海に流してきた人が大勢いるからだろう。この海は、訪れる人たちの心をそっと開き、その人たちの想いを我が身に取り込みながら、何百年も何千年も、こうして同じリズムを繰り返してきた。
この海は、そうやって僕たちを癒してきたのだ。
階段をあがって、もう一度だけ、海を見渡した。「うんうん、それでいい。そのままでいいんだ。」そんな声が聞こえた。小名浜には、名もなき海がある。どの海よりも優しく美しい、名もなき海が。
2010.4.15 up
文章:小松 理虔(tetote onahama)
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たかし (水曜日, 13 2月 2013 17:15)
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