私は小名浜をあまり知らない

tetote essay vol.14 / photo & text by miki_k

 

私は小名浜をあまり知らない。

 

小名浜の漁港には何度か撮影会で行ったことがある。 いつだったか、サンマが揚がるとき、写真を撮らせてもらっていた。2004年頃だったろうか。 「2、3匹持ってきな。」なんてビニール袋に10匹位入れて持たせてくれたおっちゃん。 そのとき頂いたサンマのなんとおいしかったことだろう。人生で一番おいしいサンマはこのときのサンマである。

 

「これからあっちでアンコウさばくから見でったら?」なんてちゃっかりアンコウ解体ショーまで見せてもらった。初めて目の前で見るアンコウは大きかった。アンコウをエイヤっとさばいていくおっちゃんはかっこよかった。

 

別の船では目が合ったおにいちゃんに写真いいですかとカメラを向けると、おちゃめなポーズをとってくれた。いい笑顔だったのにちょっとピンぼけなのが惜しかった。また、別の船にはモデルばりのルックスの若い外国人のおにいちゃんが。私たちがわいわい騒いでいると、本人はその気がないのに他のおっちゃんたちが「モデルに使ってやってよ」と座らせてポーズをとらせてみたり。日本の船で働いて国の家族を養っているんだそうだ。長靴姿でモデルを務めてくれた。

 

みなさん、なんと気さくで気前がいいのだろう。これが海のオトコでしょうか。いつ行っても誰かしら話しかけてくれて冗談が飛び交い、いつも楽しい思いをして帰ってくる。

 

 

先日は初めて街の中を案内してもらった。なるほど、昭和があちこちに残っている。そこは海風にさらされながら、ところどころ錆びている。今はもう煙が出ていない工場の長い煙突。街の中にあるあの大きな工場は何をしていたところなのか。多くの人の生活を支えていたのだろう。

 

きっと昭和の子供たちはお父さんお母さんの帰りを待つ間、友達とキャッチボールをしたり、縄跳びをしたり、近所の路地裏で遊びながら待っていた。その道を曲がると子どもたちの笑い声が聞こえてきそうな、そんな街並みがまだ残っているのだ。

 

今はもう営業していない「純喫茶」や「スナック」などのお店もまた多い。店名が、看板が、カーテンが、その時代のまま残っている。私たちが当時ダサイと言っていた、そんなお店を見つけるとうれしくなり、懐かしくなるのは何故だろう。

 

そこにどんなドラマがあったのだろうと想像し、しばし立ち止まる。きっとあの扉の中にはすてきなママさんがいた。そしてそのママさんや常連さんとのとおしゃべりが楽しくて、一杯のコーヒーで何時間も話し続けたりしたのだろう。あっちのお店には学生達がたむろしていたかもしれない。

 

学校帰りに少ないお小遣いをやりくりして喫茶店に入る。少し背伸びをしてジャズを聞き、音楽や文学、映画や芝居のことを話し続けた。そんな自分の高校時代を思い出す。ここ小名浜にはどんなお客さんが来ていたのだろうか。お客さんの数だけさまざまなドラマがあっただろう。そんなことを容易に想像できてしまうほど、しっかりとそれは小名浜に残っている。そんな良き時代昭和がそこには確かに存在していたのだ。

 

私は小名浜をあまり知らない。しかし魅力的な街であることは間違いない。 小名浜には人情がある。昭和の哀愁がある。港に出入りする船や人。おいしい魚。飛び交うカモメ。夜の工場群。そしてそこに現在の人々の生活があるのだ。すべてがフォトジェニックである。

 

だからこそまた小名浜の街を自分の足で歩き、この目で確かめ、ファインダーから今の小名浜を覗くのだ。小名浜には昭和もあれば平成もある。誰のものではない私が感じた、私が見た小名浜を写真に残していきたいと切に願うのであった。

 

2011.2.15 up

profile miki_k

1962年青森県生まれ。弘前高校卒業。東経大短期大学部国際コース卒業。いわきでカフェ経営の経験あり。趣味のフォトグラファー活動をしながら、老後は晴耕雨読なスローライフを過ごしたいと計画中。

 

 

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