動き始めた時間
Re:write vol.15 / text by Kumiko Ohori
心臓がドクンと大きく動いた —震度2だった。
5月下旬、予定より2ヶ月遅れでいわきに帰った。
もともとは友人の結婚式で3月24日に帰るはずだったのだ。
震災から2日間、家族の誰とも電話やメールが繋がらず、ニュースで流れている映像をひたすら観ながら家族の無事を祈っていた。いわき—オーストラリアの距離が果てしなく遠く、海外に住んでいることを初めて悔やんだ。どこでもドアがあればと思ったりもした。
仕事に行けば、家族や友人の安否や故郷の状態をクライアントに聞かれ涙が出る自分が嫌だったし、癒しを提供する者として精神的に不安定な状態でトリートメントをするのはクライアントに失礼と思い、仕事を2週間休んだ。
農耕民族の名残がある私たち日本人は、一定の場所に定住するため「故郷愛」が強い反面、遊牧民族のオーストラリア人は移動型だ。ちょくちょく引越しを繰り返すため、故郷を想うという気持ちがさほどないように思う。だからか、まだ余震が続いて原発問題も落ち着かない所になぜわたしがわざわざ帰るのか、理解し難いようだった。
あれから毎日のように見る、家族や友人やいわきの夢。わたしは家族に、友人に会いたいから帰った。津波の犠牲となってしまった友人に早く手を合わせたいから帰った。いわきが愛しいから帰ったんだ。
あの日からずっと、わたしの中の時間が止まっていた。震災当日のこと、避難生活の話、避難できずにずっといわきにいた話、子供をもつ親としての気持ち、友人の最期の話、、、一人ひとりの体験や想いを聞くたびに頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「震度2や3ぐらいじゃもう慣れちゃって」誰もがそう言っていた。地震がほとんど起こらない国オーストラリアに長く住み、日本で暮らした二十数年間で体験した最大震度は3だったので、震度1や2でも敏感に反応し怖がるわたしをみな気遣ってくれた。
みんなが口を揃えて言う “この世の終わりかと思った” 体験をせずに、外からしか見ることができなかったわたしなのに、「いっぱい泣いたんだからもう泣くめ」って励まされたり、「あっちで心配だったっぺ、大丈夫だったけ?」って逆に心配されたりして、そのたびに涙が溢れた。泣きたいのは、不安なのは、わたしより酷い体験をしているみんなのはずなのに、、、、どうしてみんなの心はそんなに優しくあったかくて、強いんだろう。
今は亡き友人の家でよくBBQをした薄磯。
何人もの友人を案内したいわき自慢のサーフスポット二見ヶ浦や豊間。
カツヲの時期になると活気溢れる中ノ作港。
海水浴をした永崎海岸。
仲間と波乗りを楽しんだ神白。
順に足を運び、変わり果てた姿を、現実を見た。犬の散歩で三崎公園へは何度も行ったが、心のどこかで見ることを拒み続けていた。たくさんの思い出があり、わたしの大好きな場所や景色やにおいが集まっている小名浜港付近へは、なかなか足が向かわず、オーストラリアへ戻る直前に、やっと行ってくることができた。いつも「おかえり」ってあったかくわたしを迎えてくれてたものが冷たくなっていて、それらを見た瞬間、喉の奥が重く熱くなり涙が止まらなかった。
涙で視界が歪んでも、それでもこの現実を受け止めようとゆっくりと市場の前を通ったとき、数年前、アメリカから小名浜に遊びに来た友人に「ものすごくかっこいいものみつけたんだ」って言われたことを思い出した。それは小名浜市場に停めてあった「デコトラの写真」で、うちに出入りしているトラックだった。
小名浜で発砲スチロール製品の販売、運送業を営む両親。事務所自体は無事だったが、カツヲ漁の最盛期を目前にして、小名浜市場と中ノ作市場に停めてあったそのデコトラを含むトラック計7台。機械、倉庫などの商売道具がすべて津波で流されてしまったのだ。
いつもならカツヲ臭くなっている父が、照れながら嬉しそうに「お帰り」と言ってくれる父が、今はいわきにはいない。カツヲの水揚げを迎えるために新たに機械を調達したのだが、原発問題でそれが無理と分かってから、母と弟に小名浜の会社を任せ、従業員を引き連れて銚子で仕事を再開したのだ。
わたしが滞在していた2週間半の間、父に会えたのは、銚子産のカツヲを持ってきてくれた日のほんの数時間だけだった。父はいわきを離れ、どんな想いで働いているのか。悔しいだろうな。だって小名浜と中ノ作の誇りであるカツヲを送り出せないのだから。
そんな父から先日写メが届いた。本来ならいわきで使用するはずだった機械に、「がんばっぺ!いわき」のステッカーを貼った写真だった。毎日その言葉に励まされ、小名浜や中ノ作で水揚げができる日を強く願い、銚子で頑張っているんだと思うとわたしも元気をもらった気がした。
「あんただけでもここにいなくて良かった。あっちで自分の人生を送りなさい。うちらはいわきと銚子で頑張るって決めたんだから、大丈夫だから、あんま心配すんめ」。
もうとっくに還暦を迎えている両親の再スタート。いろんな想いが交差し、母に言われた言葉がずっと頭の中でぐるぐる回っている。そして、みんなの時間があの日からずっと進んでいるように、わたしの中で止まっていた時間もようやく動き始めたということに、小名浜に帰りオーストラリアに戻ってきた今、気づき始めた。
2011.7.12 up
profile Kumiko Ohori
1976年いわき市小名浜生まれ。オーストラリアを拠点とし、マクロビオティックを中心に、オーガニックな暮らしを提案するオーガニックコンシェルジュ、アロママッサージセラピスト、ビューティーセラピスト、大豆キャンドル作家として活躍中。
<< essay top / << interview おなはまのてとて vol.5
コメントをお書きください