小名浜っ子

Re:write vol.9 / photo & text by HIZA-GAR

 

「これなんて魚?」と聞きながら、何色だったかは覚えていないが、長靴を履いて魚と魚の間をぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいた。喉が渇くと待合所に行って祖父か父に紙コップのジュースを買ってもらった。そこには屋号付きの帽子をかぶったおじちゃん達ばかり。みんな、船が入港するまで、競りまでの時間を天気予報を見たり新聞を読んだり将棋したり、それぞれの時間を過ごす場所だった。朝ごはんは市場前にある「あさひや食堂」に連れて行ってもらった。 早起きできた日だけの「ご褒美」みたいな特別な時間。

 

これが、小さかった私の「小名浜魚市場」の記憶。

 

大人になってからも時間を見つけては行っていた。砂浜がある海岸より、私は岸壁がある港が心地よかった。小さい頃の楽しい記憶は、港のあの匂いを嗅ぐとすぐに戻ってきた。毛嫌いする人もいるだろうけど、私にとってはいい匂い。車の窓を全開にして、ぼーっと過ごしていた。そして、よく癒してもらった。確実に私のパワースポット。そして、他界した父との思い出の場所。とっても、とっても大切な場所だ。

 

 

初めての経験。そして、自分や家族の生死を考えた時間。

 

3月11日、14:46。私は小名浜から10分程度のところにある中央台で撮影をしていた。脚立に上り、さて撮ろうとした時だった。ガラス張りの建物から、その場にいた方々と屋外へ逃げるので精一杯。みなで抱き合い、大きな揺れが治まるのを待った。

 

それから大きな駐車場へ移動。安否確認後、ポケットから携帯を取り出した。どこへも繋がらない。電話もメールもダメ。大きな余震が続く中、映像会社の方に車内で待ちましょうと声をかけてもらった。そこで少しだけ冷静になり、携帯電話にワンセグ機能が付いていることを思い出した。2人でNHKを食い入るように見た。小さい画面からも地震の凄まじさはすぐに伝わった。そして、津波警報。日本地図の太平洋沿岸が赤いラインでなぞられていた。

 

それを見た瞬間、津波の恐怖も知らず小名浜に帰りたいと思った。こんなちっぽけな私に何ができるのか分からなかったけど、帰りたくて仕方なかった。しかし映像会社の方に「もう少しここにいましょう」「大丈夫です、大丈夫です」と声をかけてもらい、冷静な判断をしなければという気持ちになり地震発生から約2時間後、祖父が入居する老人ホームへ行こうと決めた。

 

実家や工場は兄が居るから大丈夫。そう何度も何度も一人で声に出しながら中央台から上荒川へ車を走らせた。途中、崩れている外壁や陥没している道路を横目に泣きながら運転していた。渋滞する中、なんとかホームへ着くと入居者の方が1階のロビーやリハビリ施設に避難していた。なかなか祖父を見つけられずに焦ったがスタッフの方が冷静に対応してくれて、一番奥に座る祖父を見つけ安堵した。「じいちゃん!」と声をかけとなりに座ったら「大丈夫だったか」と優しく言ってくれた。

 

そして86歳の祖父の口から「こんな地震は初めてだ。覚悟したぞ、じいちゃんは」と聞いた時、改めて、とんでもないことが起きているんだと思った。地震や津波の被害状況が映し出されるテレビをずっと見ていた祖父が「小名浜は大丈夫だべか、みんなは大丈夫だべか」と。私は、なんの確信もなく「大丈夫だよ、大丈夫」と繰り返した。ただ、それしか言えなかった。そして、大丈夫であってほしかった。

 

 

 

地震よ、津波よ、「小名浜魚市場」になんて事をしてくれたんだ。

 

実家は魚の仲卸業を営んでいるが、自宅や工場は市場からは約1キロほど離れているため津波の被害はなかった。市場にある事務所は流されてしまったが家族は無事だった。余震とは思えない大きな地震に怯え、一睡もできないまま朝を迎えた。そして市場周辺を確認しに行った兄から耳を疑うような話を聞いた。港から数十メートルの所にある親戚の家と工場が浸水した事、トラックやタンクが道路に流れ積み重なっていたこと…。

 

作り話のような現実を聞き、私はただただ唖然としていた。時間が経つにつれ、私は何をするべきなのかと模索し始めたが「写真を撮らなくては」という報道カメラマン的衝動は全く起きなかった。怖かった。現実を受け止める自信がなく、本当に情けない事に怖くて行けなかったのだ。

 

そして、その気持ちのまま、何もできないまま時間だけが過ぎていった。ある日、小名浜の友人に電話をし「今の小名浜を見た方がいいか」と聞いた。「うん、見た方がいい」と言う言葉に背中を押され、一緒に「小名浜魚市場」へ行く決意をした。それは震災から30日という時間が経った日だった。震災後、何度も市場周辺を訪れている友人の後ろを恐る恐る自転車で走った。

 

悔しかった。悔しかった。本当に、悔しかった。

 

大切な思い出の場所が津波や地震で壊れていた。長靴で飛び跳ねた場所、ジュースを買ってもらった場所、朝ごはんを食べた場所。海の上に浮かんでいるはずの船が防波堤に上がり、市場に置いてあった物が数十メートル先の住宅街に流れていた。心底、悔しかった。

 

でも、涙と共に出てしまった鼻水をすすった時、懐かしい匂いがした。壊れてしまった物や流れてしまった物はあるけど、市場の匂いはそのままだった。少しだけ「いつもの小名浜」を見つける事ができた。その日は何もできずに帰ってきたけど、その匂いを嗅ぐことができただけでよかった。もう怖くない。大丈夫。

 

小名浜に生まれ育った私に何ができるかはまだ見つかっていない。しかし、私は昔の小名浜を知っている。体感している。その事を胸に自分ができる事、するべき事をこの目で見つけ手でつかんで、一つ一つやっていこう。「小名浜っ子」としてカタチになる事をしよう。大好きな小名浜に少しでも恩返ししていこう。よし、これから。これからです、小名浜も、私も。

 

 

2011.5.10 up

profile HIZA-GAR

1980年いわき市小名浜生まれ。高校卒業後、東京の写真芸術専門学校へ入学。卒業と同時にカメラマンアシスタントとして現場で経験を積む。いわきに帰省後は、情報誌への文章の寄稿、写真撮影など幅広く活躍している。

 

 

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