ESSAY
輝く波と鉄錆の匂い
text by hide / posted on 2012.4.16
生まれてからしばらくのあいだ、
私は、永崎海岸沿いにあった父の生家で育てられたそうだ。
その頃の記憶は残ってない。
でも、写真は残っている。
よだれかけを付けた私が兄や従兄弟たちといっしょに砂浜で遊んでいる。
キラキラと光る穏やかな太平洋を背にして。
地震のあったあの日、私は川崎の自宅にいた。
揺れが起きた瞬間はさほど驚かなかった。
「またか」という程度のものだった。
しかし、すぐに今回のそれがいつもより長く大きい事に気づいた。
とっさに頭に想い浮かんだのは「関東大震災」という言葉だ。
東北、それもいわきに大きな被害が発生しているとは思わなかった。
「この辺りは岩盤がしっかりしているから大地震はこない」
という迷信のようなものがいわきにはあったからだ。
実際、あの地方は地震が少なかった。
ある程度揺れが収まったのを見計らい、コートを取って外に飛び出した。
外にはすでに近所の住民数名が集まっていた。
なにやら不安そうにひそひそと話しあってる。
私も同じマンションの住人と話を交わす。
どうやら近所で被害にあわれた方はいなさそうだ。
とにかく余震が頻発していたことを憶えている。
こわごわと自宅マンションに戻ってテレビやインターネットで情報を集め出した。
震源地は東北三陸沖だった。テレビを津波注意報が真っ赤になって覆っている。
携帯電話や家の電話は何度かけても繋がらなかった。
長い行列に加わってコンビニの公衆電話でかけてみてもやはり繋がらない。
結局、両親と連絡がついたのは夜遅くなってからだ。
実家ですごい揺れに見舞われたあと、車に乗って高台まで避難したそうだ。
家は地震で損傷が激しいが住める状態ではある。
津波は届かなかった。電気は使える。ただ水が出ない。
いまの状況を聞けた。親類に負傷者はなかったそうだ。
何もできない自分が歯痒かった。
地元にいる従兄弟に両親の様子を見てもらうよう頼むくらいしか私にできることはなく、
事態が好転することを祈るしかなかった。
2週間後、休暇を取って小名浜に帰ることにした。
常磐線はいまだ復旧しておらず、高速バスをつかった。
東京駅のバス乗り場はかなり混雑していて長い行列が出来ていた。
すぐ後ろに並んでいたおばさんが大きな声で同年代のおばさんと話をしている。
原発が爆発したその日、タクシーを乗り継いで東京まで逃げてきたらしい。
帰るのが怖くない訳ではなかった。
原発事故の情報が錯綜しているなか、
余震にも気を付けなければならない状況での帰省は
大げさに聞こえるかもしれないけれど、ある程度の覚悟を要した。
両親は思っていたより元気だった。
若干興奮気味なところ以外は以前と変わらぬ様子で、
地震が起きた時のことや物資が手に入らず難儀したことを話してくれた。
両親と会うのは多少気まずい面もあった。
原発の爆発後、両親とは避難する、しないで意見の言い合いをくりかえしたからだ。
避難をして欲しい私は強い口調で避難を勧めたが、聞く耳を持ってもらえなかった。
当時は、両親が同意するなら九州でも北海道でもどこでも避難するつもりでいた。
実際に全国の自治体のHPを見比べて避難先をピックアップしたりしていたのだ。
「小名浜の様子を見たい」
そう言うと、父が案内役をかってでてくれた。
それに母も同乗した。親子三人でのドライブとなった。
津波で海水を被ったせいか、港のそばは鉄錆の匂いがした。
産業道路はところどころ陥没し、信号も消えたままだった。
三崎公園に続く道沿いの住宅脇には浸水でダメになった家財道具が積まれていた。
永崎の海岸沿いにあった家々はまるで戦争映画のセットのように破壊されていた。
その中のひとつに父の生家もあった。
父の生家は土台だけを残し、きれいに流されていた。
近くの道路は寸断されていて近寄れなかった。
私たちは車中から家のあった場所を眺めていた。
父はどんな思いでそれを眺めていたんだろう。
地震で壊れ、津波に流され、現在も放射能に汚染されているこの土地。
こんな想いをしても離れたくないと思わせる故郷。
次の日の朝、当時東京で手に入らなかった納豆を食べた。
昼頃、「また来るから」と挨拶をかわし、家を出た。
平まで父の車で送ってもらい、私は、東京行きの高速バスで帰路に着いた。
移りゆく景色を眺めながら、私はあの鉄錆の匂いを思い出していた。
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1972年いわき市小名浜生まれ。高校卒業まで小名浜で過ごす。
現在は川崎市在住で、webデザインを生業とする。来月より小名浜に復帰予定。
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