沈黙の向こうへ
Re:write vol.20 / text & photo by Fujiko
小名浜の海を見てから、2年が経った。よく晴れた夏の午後を一緒に過ごした友人に「じゃあ、またね」と笑って手を振ったのは、もうそんなに前のことなのかと、少しびっくりする。
「何の気なしに今度があると思える今を生きていること以上に幸せなことがあるだろうか?」
以前、その時の思い出を綴って寄稿した際に私が書いた文章だ。今もそう思っている。だけどこの感覚は、あの時感じたのとは全く別のものだ。「生も死も呑みこんで深い青を湛える小名浜の海」と書いた時は、あの夏から1年半後に事情が、意味が、こんなにも激しく変わってしまうなんて思いも寄らなかった。
取材先で、地面はぐらぐら揺れ、電線が頭上で大きくたわんでいた。交通手段を失い、携帯電話は一向に繋がらない。電話を借りるために駆け込んだカフェの大型スクリーンに映し出された津波の実況中継に、全身が粟立った。白煙を上げる福島第一原子力発電所の映像から目を逸らせなかった。外は人で溢れかえり、混乱していた。都心に遠足に出かけたまま安否がわからなくなっていた長女の無事を確認した時、思わず足の力が抜けた。大急ぎで祖父の家に電話をかけたが、何日も繋がらないままだった。
色んなものが露に剥き出されて、日本中が急性パニック発作を起こしたみたいな毎日だった。
3月11日以降、私は、いわきに暮らす友人にかける言葉が見つからず、声が喉の奥で引っかかったようになってしまったし、祖父母に電話が繋がらないと、心配なくせに、何故か少しほっとしていた。家では、子どもたちに作る食事に福島県産の野菜を使わなくなった。ふと振り返ると、自分が、スーパーで箱積みされている胡瓜を横目に通り過ぎる時の後ろめたさを、台所まで引きずってきたことに気づく。それをひっそり包丁で断ち切って、毎日ごはんを作る。
この国に暗い影を落としている問題はとても根深く、行く末を考えれば考えるほどわからないことだらけだ。自分の立場をはっきり表明して意見を主張する人たちを見ると、正直少し羨ましいと思うし、自分がとても億病で中途半端な人間だと感じて焦ることもある。だけど私はまだ、自分の内側でもつれる思惑や弱腰な態度や違和感の正体をうまく説明できない。非常事態にあって、いちばん不確かなのは自分自身だという気がする。それで、私は口をつぐんだ。もしかしたらこうやって沈黙している人は案外たくさんいるのかもしれない。そして、物言わぬ人間が、無感覚で “思考停止” なのかというと、やっぱりそうでもないのではないかと。
悲しいけれど、結局人はその立場にならないことは、本当にはわからないものだ。そして誰も、ひとりひとりの心の奥深いところまで計り知ることはできない。
だからこそ、単純な比較の問題じゃない、と思う。あっちよりこっちがましというのは必ずしも「幸福」という意味ではないし、ましてや優劣の基準などではないはずだ。みんな、違う。違和感を感じるのは、無関係ではない証拠だ。自分の理解の範疇をはるかに超える体験をした人に「わかるよ」なんて口が裂けても言えないし、「あなたのために何かしたい」というのもおこがましい。にも関わらず、痛みを感じて思わず手を握りたくなる。それが人間てやつなのではないのかしら、と。
揺さぶられ、崩れ、壊され、呑み込まれたものがこの国にはたくさんあって、私たちは目に見えない瓦礫に今なおよろめき、つまずきながら、時に手で空を掻いたり、その手を誰かに掴まれたりして歩を進めている。そんなふうに感じる。
私は福島県白河市で生まれた。深く雪の降り積もる夜、毎晩祖父が私を沐浴してくれた。1km先まで音が真っ直ぐ響くしんとした冬と、アメンボの滑る青い田畑と、ヒグラシの鳴く彼岸と、枯れ葉を踏みしめる湖のほとりと、再び野犬の遠吠えが冴え渡る冷たい冬の夜。福島の土で育った野菜や果実が、突き抜けるように寒い季節を越えてどれほど瑞々しいか。祖父が深夜に出かけ、沖で釣って来た烏賊がどれほど甘くて美味しいか。幼い私がどれだけ嬉しかったか。今も思い出すだけで悔しさの余り胸の奥が痛くなる。
今年の8月、仲間たちに協力してもらって『5W?H』という写真展を開催した。そこで、一昨年撮った小名浜の風景をアルバム公開しようと思った。開催日のぎりぎりまでためらった挙げ句、冒頭の友人に「震災の後に撮った写真を貸してください」と頼んだ。彼から届いたファイルには5枚の写真が入っていて、「3枚選んで欲しいです。5枚は使わないで下さい。ふじこさんが何を選ぶか知りたいので」と書いてあった。
「5W?H…何時、何処で、誰が(と)、何を、何故、如何にして。行くべきか、留まるべきか。などと思案すること自体がおこがましいほどに時は容赦なく刻み続け、人も時代も、大きなうねりに呑み込まれて押し流されてゆきます。 その中で、騒いだり無関心だったり一喜一憂してみたり、私たちはいつも自分勝手でずるい、迷惑千万な生き物です。そして、微々たる存在のくせに、 えらそうに自然とか歴史とか、生きるとか死ぬとか、壮大なことを考えずには居られなくなる時があって、色んなものに how と問いかけながら途方に暮れている気がするのです。で、そういうばか者は、こんなふうにめんどくさいことを書いてみたりするわけです。」写真展の挨拶文に、そう書いた。
日本人も外国人も、たくさんの人がアルバムのページをめくり、写真を見ていた。before after ではなく、ただ、彼が生きている風景を一緒に見てもらいたい。選んだ3枚は、その一点に尽きた。その中に、なんだか抽象的で不思議な1枚があった。明るい水色に魚らしき影がいくつもゆらゆらと映っている写真。何だろう?と見ているうちに、それが、壊滅的な被害を受けて多くの魚が死んでしまったアクアマリンふくしまの再オープンしたばかりの水槽で泳ぐ、回遊魚たちの元気な姿だということに気づいて、思わず泣いた。
瓦が落ちたままブルーシートで一夏を過ごした祖父の家の屋根は、どうやら修復されたようだ。他愛ない話をして、昔から変わらない低い笑い声を受話器越しに聞く。だけど今祖父は「時間が出来たら遊びにおいで」とは言わない。「新米を送ってやるよ」とも言わない。切り際に「ひ孫たちによろしく」と言う。「はい」と私は答える。「体に気をつけて」、「はい」とまた返事をする。「ありがとう。おじいちゃんも」そして電話を切る。
当たり前だと思っていたことは、全然当たり前なんかではなく、淡々と繰り返されるように見える毎日は、実は奇跡に近い均衡で成り立っていたのだ、と思い知る。もう二度と戻らない時間と大きく変わってしまった歴史。それでも私は、倒壊したものの上に育つ生命の力を信じる。
「震災から半年後の9.11」というテーマで引き受けてはみたものの、何を書こうとしても120%逡巡してしまうに決まっていて、案の定、私は9月11日をとうに過ぎた今もこの原稿を書き上げられずにいる。言葉は、写真や映像よりもぐっと露骨で、難しい。ふがいない。でもこれが2011年、手探りしながら東京郊外に暮らしている私の、ありのままの姿だ。そして私はこれから、沈黙する私の手を掴んでこの原稿を依頼してくれた友人にメールを送ろうと思っている。
「ありがとう、今度また、小名浜の海を見に行くよ」。
2011.9.19 up
profile Fujiko
福島県白河市生まれ、葛飾育ち。フリーライターとして広告、webなどで執筆するほか、フォトグラファーとしても、今年8月に東京高円寺のDYNAMO Koenjiにて個展「5W?H」を開催するなど精力的に活動中。また、映像作家として音楽PVなどの映像作品を残すなど、東京を中心にさまざまな創作活動をつづけている。
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