Whatever
tetote essay vol.6 / text & photo by Fujiko
一瞬だった。
カメラを掴み、開け放した助手席の窓から半ば身をよじるように乗り出してシャッターを切った景色は、あっという間に過ぎ去った。ファインダーから離した肉眼に映るのは湿気を帯びた夏の夕暮れの市街地で、先祖の墓参りと酒宴の午後を過ごした喪服の一族が頬を赤く染めてゆっくりと通りに連なる光景に、ふいに胸が締め付けられる。
ああ、こどもの時にこんな夏を過ごしたことがあった。あれはいつ、どこだっただろう? と思う間に、それすらも後方の黒い点。振り返った後部座席には、海で遊び疲れたふたりの娘たちが、裸足に砂をつけたまま眠っている。
10年に及ぶテキサス生活から帰還したDJ Aquiが「この写真をアルバムのジャケットに使いたい」と言ったとき、「いいよ!」と私は即答した。彼から送られてきたHIP HOP MIX音源の雰囲気は、写真のイメージにぴったりだと思ったのだ。
真夏の空。赤茶けた煉瓦造りの煙突。色褪せ、錆びた工場のトタンの壁。巡る季節の中で朽ちてゆく物に記された時間の流れ。かびの生えた懐古趣味に興味はない。ただ、そのものがそのものとして在り続ける様にひきつけられることがある。それは年齢を重ねた人間の、美醜を超えた説得力を刻む皺に送る視線に似ているかもしれない。
奇しくもアルバムのタイトルは「Whatever」-如何なるものであろうと-。
無骨でパワフルなオールド~ミドルスクールHIPHOPから、鏡を割ったように鋭利なエレクトロニカまで、Aqui君はなんでもかんでも混ぜていた。無節操といえばそれまで、けれども私は彼の選曲に「いいものはいいじゃんよ」という、作為のない大らかさを感じた。それはひとりの生身の人間が、その人である所以に生まれた感覚で、能動的に「好きだ」と感じたものに正直であった軌跡。ちょっと大袈裟かもしれないけど、そういうことなんだと思う。
そもそも小名浜に行くことになったのは、白河に住む祖父を訪ねたのがきっかけだった。5年前、肺がんを患い、誰もが「もうだめかもしれない」と思うステージまで進行していたにも関わらず、昭和一桁生まれの並外れた体力と屈強な精神力で闘病し、医者もびっくりするような回復を遂げた人…。髪が抜け落ちた頭にかぶったニット帽の折り目に煙草を仕込んでは、看護士の目を盗んでぷかーっと煙をくゆらせながら並木の銀杏を拾っていたり、キムチを漬けたいからと一時退院して、「ダサいからあんなもん死んでもつけない」と高齢者マークを拒否した4WDをすっ飛ばして家に帰ってしまうような人だ。
次女を出産する間際、陣痛でのたうちまわっている私に、自分だって検査開腹する直前だというのに「こっちなんか腹の中に得体の知れない赤ん坊が居ない分マシってもんだ。女というのは難儀な生き物だなぁ。その痛みに耐え得るように生まれついたのだから、観念してせいぜい元気な子どもを産んでらっしゃい」と憎まれ口混じりに励ましのメールをくれたりもする、そういう人だ。
波乱万丈な人生を歩み、図らずともカリスマ的な魅力で人望を集めてきた、多彩で情に篤いおじいちゃんが、私は幼い頃から大好きだった。なので、久しぶりに会った祖父が、「もうすぐ死んじまうんだと思って墓まで買ったのに、閻魔様に嫌われちゃって俺は地獄にも行けねえ」なんて冗談を言いながら、再び太さを取り戻した腕で耕運機をガガガガっと動かしている男前な姿や、湯船につかりながら好きな歌を歌う、変わらない低く通る声に、私はちょっと泣きそうだった。
そんなとき、「ふぐすまに来たのならぜひ浜方面へ!!!」という友人K君の申し出があったのだ。嬉しかった。中通りから浜への意外に遠い距離のことなんてほとんど考えもせずに、朝早く一家4人で車に乗り込み、小名浜に向かった。
それまで上海と東京間で、わりと個人の内面に突っ込んだ内容のメッセージのやり取りをしていた私たちが、夏休みムードに満ちた小名浜のにぎやかな定食屋でまぐろ丼を食べながら、家族ぐるみで他愛のない世間話をしている。シリアスさのかけらも無いのどかな光景は妙におもしろくて、今思い出しても笑いが込み上げてくる。猛暑の中で食べためひかりの唐揚げとビールが美味しくてたまらなかった。
海で遊び疲れた人々がぼちぼち帰り支度をしようかという時間帯、陽気な太陽に一抹の寂しさがにじむ浜を、裸足で歩いた。水は冷たく澄み、波間に光が乱反射していた。当時、もやもやと割り切れない混沌を胸の奥に抱えていた私は、服のまま水に飛び込んだ子どもたちの歓声につれられてシャッターを切りながら、ふいに「まるごと呑みこんで溶かしてしまおう」と思った。
静けさも烈しさも絶え間なく打ち寄せるこの海のように、迷いも決断も呑みこんでしまおう。ねえ、それでいいんじゃない? そう思ったら、滞って淀んでいたものが、ゆっくりと流れ始める予感がした。
帰り道に撮ったあの写真。時速50キロで通り過ぎた景色。シャッタースピードで焼き付けた一瞬。とどまることのない時間。甦る記憶。スパリゾートを通過したとき、昔ここがまだ「常磐ハワイアンセンター」だった頃、祖父と一緒に何故かなまはげのショーを見てぎゃあぎゃあ泣いたことを思い出し、小さく笑った。
日が沈もうとしていた。山の稜線や電柱の影が、金色から紫へのグラデーションの空をくっきりと切り取るように浮かび上がっている。方々でひぐらしが鳴いていた。完璧だ。完璧な日本の…「夏の終わりって感じだなあ」。運転席の夫が言った。見遣った夫の横顔越しに、生ぬるい風が田んぼの稲を揺らしていた。
その夜、浴室から聞こえてきた祖父の歌声に、洗濯物をたたむ手を思わず止めた。
髪のみだれに 手をやれば 赤い蹴出が 風に舞う
美空ひばりが晩年に歌った曲。今度は小名浜のちょっと北にあるという塩屋岬にも行ってみたいなあと思った。何の気なしに「今度がある」と思える今を生きていること以上に幸せなことがあるだろうか?
私がそこに居なくても、あの工場は今日も潮の匂いがするあの街で、日に照らされたり雨に濡れたりしているのだろう。あの日の午後を過ごした友人は、あの海を見ながら怒ったり笑ったり泣いたりして、色んなことの詰まった日々を過ごしているのだろう。祖父は今夜も風呂で歌うのだろうか。
あの夏見た、生も死も呑みこんで深い青を湛える海のように、私は今ここに在る見えるものと見えないもののすべてを、変わらないものと変わりゆく物事のうねりを、如何なるものであろうとゆるやかに赦して愛でたい。エンドマークが置かれるその刹那まで、そうやって瞬間を繋いでいこう。うん、それでいいんじゃない?
2010.5.12 up
profile Fujiko
1978年白河市生まれ、東京葛飾育ち。東京の東側から西側に流れて、現在は多摩地区在住。web新聞、広告など、必要に迫られて写真も撮るフリーライター。宝物はふたりのこどもたち。
DJ Aqui
1980年三重県四日市市生まれ。高校卒業後、渡米留学し、約10年間テキサスで過ごす。10代の頃からHIPHOPに目覚め、以来ジャンルを超えてさまざまな音楽を吸収。アメリカ時代から各イベントでスクラッチを活かしたDJをこなす。現在はトラックメイカーとしても活動中。
コメントをお書きください