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ESSAY

ふるさとを近づける握手

text by dai  /  posted on 2012.5.15

 

彼と復興イベントで、「お互い頑張りましょう」と握手したのは、

桜が咲く四月の新橋だった。

今年になって会社から支給されたiPhoneを使って見よう見まねで始めたTwitter。

そのなかに、小名浜の面々の元気なつぶやきを見つけ、

小名浜のいわきの福島の風景を思い起こしては懐かしんでいた。

そして、故郷への想いが日に日にはっきりとしてきていた。

生まれてから上京するまで小名浜に住んだ年月と同じ時間が

無いものねだりで来たこの東京で過ぎようとしていた。

なんだか折り返し地点に差し掛かったランナーのような感慨深い年に、

あの大震災は起こってしまった。


土木の仕事をしている関係で、これまで国内で起きた震災の復興事業にも携わった。

少しは世の中に役に立てたものと自負していた。

しかし、いざ身内や故郷がその境遇に立たされたとき、

ただの思い上がりだったことを痛感させられた。

役に立てないばかりか、ネット上の情報を父親の携帯に送ることぐらいしかできず、

ほとんど何もできないでいたからだ。

故郷を離れてまで、自分は何をしてきたのか。これまでの人生を悔やんだ。


悲劇の主人公を楽しんでいる場合ではないことは、わかっていた。

でも、いざそうなってみると、おどおどするばかりで、

テレビドラマや映画のようにはいかない。

ただただ時間ばかりが過ぎていった。

そして故郷は「永遠のもの」からどんどん変貌していった。

なぜに福島で起こる必要があるのか、答えなど見つかるはずもないことを繰り返し思った。

震災で身内や家を失ったたわけでもない。

だから、本当に悲しい思いをしている人と比べることが憚られた。

小名浜にも福島にも住んでいるわけでもない。

当日は出張していて、みんなが恐怖におののいたあの震災の揺れすら経験していない。

すべてが偶然ではあるのだけれど、傍観者のようで我ながら後ろめたかった。

子供を持つようにもなって、幸せの数だけ守るべきものも増えた。

その分なのか、近いはずの小名浜が遠くなっていた。

広範囲の地震は都内の生活への影響も大きく、乳幼児を抱える我家も乱れていたのだ。

子供もいる弟家族を地元に置いて、両親だけ避難させることはできるはずもなかった。

地震も度々発生しては、不安を煽る。

1年経っても、あのときを振り返る日々が続いていた。

酔った勢いなのか、本心なのかわかないが、

心ない言葉を電車の中などで聞き、

胸ぐらをつかんで殴ってやりたい憤りをなんとか抑えることが少なくなかった。

愚かなことに、本当に悩むようなつらいことは、当人にならなければわからないのだ。

そしておそらく、震災前までは、自分も見ず知らずの誰かに、同じような憤りを覚えさせていたのだろう。

いつごろからだろうか、ブログなどで見る小名浜の海の輝きは、

住んでいた頃の自分を思い出させるだけのものではなくなってきていた。

もっと特別な想いが包みだしているのを感じていた。

 

そんなときだった。

「震災の折りには被災地を故郷に持ちながら、

 被災者でもなく部外者でもない立場でさぞかしお苦しかったでしょうね」と、

イベント会場でいわき出身者へ掛けた声を、彼がつぶやいた。

なんども読み返した。涙があふれた。

わかっていてくれる人がいることが嬉しかった。

一番つらいのは、住んでいる人だろう。

申し訳ないと思う地元に、こうも言ってくれる人がいてくれるのだと思うと救われ、

これからもかわることなどない故郷への想いを実感した。

平日の短い昼休み、電車に飛び乗り新橋に向かった。

そこには、額にタオルを巻いてかまぼこを売る彼がいた。

そして、僕はこのエッセイを書いている。

人は誰かとつながっていたい。

故郷にそんな人がいることが、限りない励みになった。

大震災が時間を空間を人間関係を濃密にしはじめている。

僕も今を大切に、前だけ向いて頑張りたい。

答えなんてものは、振り返ったときにしかわからないものなのだろうから。

 

 

文章  dai

1971年いわき市小名浜生まれ。都内の建設会社に勤める。



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