forget
Re:write vol.8 / text by cozcoz.
3月11日 。予報では雪マーク。ずる休みする気にはなれなかった。派遣の契約についての話が16時からあったからだ。でも、それが急遽なくなった。
外で防災訓練が行われていた時、私は築数十年にもなる建屋で製品検査を行っていた。
14時44分、すべての項目が埋まった。
14時46分、地震が来た。
揺れは長かったが、1週間前にもあった地震と変わらないだろうとみて、しばらく様子をみていた。 でも、違う揺れが足元を震わせた。 騙し騙し使っていた建屋が異様な音を出しはじめた。中にいた人はみんな外へ出た。私も近くのドアから外に出た。電信柱が、建屋が、視界が大きく揺れた。とっさに、瓦も電信柱も倒れない方向へ走った。車に必死にしがみついた。目の前で室内灯が消える。
数年前、自殺を何度も考えていた人間が、今この数分の揺れで生き延びることを考えている。
地震が怖かったのだ。手が震えて止まらなかった。隣の製錬所から大きな音がした。工場内は緊急停止がうまく働いていて不具合は無いようだった。でも、これから津波が来る。人間というものはどうにもならなくなると、怒ったり、泣いたり、具合が悪くなったり、そこから逃げたり、その人の人間性が表に出てくる。男性社員が、女性社員を怒鳴りつけた。事務棟の屋根の上には、ヒールとスカート。登るのもぶらぶらの梯子。どの工場も津波は想定外。色々なものが、むき出しになるのを見た。
臨海鉄道は緊急停止し、警告音がずっと鳴っていた。高い場所からは海が膨らんで見えた。タンカーが見えて、タンカーが見えなくなって、津波が構内に入ってくる。引き波は本当に速く、産業ゴミは軽々と流れて行った。これが第何波なのか全くわからない。ただ、NHKラジオのお兄さんが余震で揺れるたびにあせっていることだけは理解できた。
そのうち警察の方から小学校の3階以上に逃げてくださいとの指示。地域の皆さんと一緒に1時間ほど過ごしたが、自己責任で帰れるということになり、17時30分頃、工場に戻った。構内は異様な臭いで満たされていた。まだ無事だった車で家にまっすぐ向かい、娘と母と抱き合って生きてることを確認した。
未だに私はあれが現実だったと捉えられていない。それでも夢にうなされることが今でもある。
あれから1カ月、私は工場に入ることはなかったが、先日、ようやく出社できた。構内はめちゃめちゃになっていた。プラントは斜めに、配管を支える支柱が役目を果たせず、貯蔵タンクが寄り添っている。液状化現象であちこち傾いてしまったのだ。元々砂浜だったこの場所は、あんな大きな施設に耐えるだけの強度を持っていなかったのかもしれない。
廃止になりそうな施設。復旧を急ぐ施設。通常運転に戻りつつある施設。同じ工場内でこんなにも差が出てしまう。きっとこれは地域でも一緒なのだろう。
ずいぶん時間が経って、形だけは以前に戻ったような生活の中、ふと考える。小名浜はどんな町だったのだろう。あれ以降の港は、元の姿を思い出せないほどの光景しか残っていない。思い出のあるいわきら・ら・ミュウもアクアマリンも、船が転覆したり、車が横転したり、駐車場に自販機が横たわっていても、存在は消えなかった。
大好きな町並み、壮大なるプラントの夜景は本調子ではないかもしれない。でも、また来るぞと、何故か思うのだ。来なきゃいけないと、静かに。
何があるんだろう。壊されてもなお、私を惹き付けるものは何なのだろう。この4月いっぱいで小名浜を去ることになったが、こんな体験をしてもなお、小名浜の求人が応募の候補にある。まだ港は復旧だけで手いっぱいの状態だが、小名浜がさらに生まれ変わるチャンスが来たとそう思いたい。
海と共に生きる、浜っ子魂でこの困難を乗り切ってほしい。そう願っている。
2011.4.27 up
profile cozcoz.
いわき市江名生まれ、湯本育ち。シングルマザー歴3年。
小名浜の化学工場に派遣され、勤務中に被災。現在、契約期間終了につき就活中。
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